鬼畜兄と入れ替わった【忌み子令嬢】、ゲーム知識で推しのバッドエンドを叩き潰す   作:月城 友麻

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5. 恐るべき聖女

「聖女様、今は訓練中ですので……」

 

 その言葉を発すると同時に、リリアナの身体は既に動いていた。

 

 アレクシスの大きな身体――百九十センチを超える長身と、鍛え上げられた筋肉――を最大限に活かし、カイルとマリアの間に割って入る。それは、母鳥が雛をかばうような、本能的な動きだった。

 

 カイルの温もりを背中に感じる。ほんの僅かな距離。でも、この距離が、彼と死神の間の最後の防壁。

 

 マリアの天使のような微笑みが、まるで仮面に亀裂が入るように、一瞬にして凍りついた。

 

「あら……」

 

 その声は、蜂蜜に毒を混ぜたような甘さと危険を孕む。

 

 ゆっくりと、まるで演劇の一幕のように優雅に、マリアは顔を上げる。亜麻色の髪が朝の光に揺れ、一見すれば天使の後光のようにさえ見える。だが、その瞳には――憤怒(ふんぬ)の炎が、青白く燃えていた。

 

「失礼しました、アレクシス様」

 

 鈴を転がすような美しい声。だが、その奥には研ぎ澄まされた刃物のような殺意が感じられる。

 

 そして――――。

 

 マリアの視線が、リリアナを射抜く。

 

 それは、ただの視線ではなかった。魂の奥底まで探ろうとする、侵略的な眼差し。リリアナは、全身の毛が逆立つのを感じた。

 

(見透かされている……?)

 

 マリアの瞳の奥で、何かが(うごめ)いている。それは人間のものとは思えない、底なしの闇。そして、獲物を値踏みする捕食者の冷徹さ。

 

 二人の間で、見えない火花が散る。

 

 訓練場の喧騒が、急に遠くなったような錯覚すらおぼえた。

 

(これが、聖女の仮面の下の素顔)

 

 ゲームでは、最後の最後まで正体を隠していたマリア。だが、今こうして対峙してみると、その本性は明らかだった。この女は、最初から化物だ。

 

「聖女様、申し訳ございません……」

 

 リリアナは、震えそうになる声を必死に抑えながら、形式的な謝罪の言葉を紡ぐ。アレクシスの低い声が、自分でも驚くほど掠れていた。

 

 背中を、冷たい汗が一筋、また一筋と流れ落ちる。マリアの視線は重く、まるで巨大な蛇に睨まれた蛙のような圧迫感があった。

 

 いや、それ以上に恐ろしいのは、まるで入れ替わりを見抜いているようなその余裕だった。

 

 マリアの瞳に、一瞬、愉悦の光が宿る。まるで「面白いものを見つけた」とでも言うように。

 

「お前たち、素振りを続けろ!!」

 

 耐えきれなくなったリリアナは、勢いよく振り返ると団員たちに怒鳴った。

 

 それは、アレクシスの暴君ぶりを演じる必要からでもあったが、何より、これ以上マリアと視線を合わせていたら、全てを見透かされそうな恐怖からの逃避だった。

 

 訓練生たちは、ビクリと肩を震わせて慌てて訓練を再開する。

 

 カイルも困惑した表情を浮かべながら、剣を手に取った。その翡翠(ひすい)の瞳に浮かんだ戸惑いが、リリアナの胸を締め付ける。

 

(ごめんなさい、カイル。でも、これもあなたを守るため)

 

「お邪魔……しましたわ」

 

 背後から、マリアの声が聞こえる。

 

 それは、まるで蜘蛛(くも)の糸のように粘着質で、耳に纏わりつくような不快な響きを持っていた。

 

 優雅な足音が遠ざかっていく。だが、リリアナの背中には、まだあの視線の残滓が焼き付いていた。それは呪いのように、警告のように、そして何より――宣戦布告のように。

 

 恐る恐る振り返ると、マリアは白いローブを翻しながら訓練場を後にしていくところだった。その後ろ姿は、相変わらず気品に満ちて美しい。誰が見ても、清らかな聖女候補そのもの。

 

 だが――

 

 去り際、マリアが一瞬だけ肩越しに振り返る。

 

 その口元に浮かんだ笑み。

 

(笑ってる……楽しんでる……!)

 

 それは、新しい玩具を見つけた残酷な子供のような、あるいは、捕獲しがいのある獲物を見つけた捕食者のような、ゾッとするほど無邪気で、それゆえに恐ろしい笑みだった。

 

 リリアナの拳が、無意識に震える。

 

(もう始まってしまった。マリアとの戦いが。そして向こうも、私を「敵」として認識した)

 

 でも、後悔はない。

 

 むしろ、これでいい。マリアの注意が自分に向けば、その分カイルは安全になる。たとえ、この身が危険に晒されようとも――――。

 

「アレクシス様」

 

 背後から、澄んだ声が響く。

 

 振り返ると、カイルが真摯な表情で、深々と頭を下げていた。朝の光が、彼の栗色の髪を柔らかく照らしている。

 

「ありがとうございました。訓練中に私語をしてしまい、本当に申し訳ありません」

 

 顔を上げたカイルの表情は、純粋な感謝と反省に満ちていた。そして――

 

「ただ、マリア様も悪気はなかったと思いますので……きっと、騎士たちを励まそうとしてくださったのでしょう」

 

 ああ。

 

 この人は、本当に。

 

 丁寧に相手のことまで気遣っている。誰も悪者にしたくない。誰の心も傷つけたくない。

 

 その優しさが、眩しくて、愛おしくて、そして――痛々しい。

 

(この優しさが、あなたを殺すのよ、カイル)

 

 マリアは、この純粋な優しさに付け込む。信じる心を利用する。そして、気づいた時には、もう手遅れ。

 

「……訓練に集中しろ」

 

 それだけを、ようやく絞り出す。

 

 本当は、今すぐ抱きしめたかった。「あなたは騙されている」と叫びたかった。「私があなたを守る」と誓いたかった。

 

 でも、グッと堪えて、リリアナは踵を返す。

 

 アレクシスの大股で、訓練場を後にする。一歩、また一歩。カイルから離れていく度に、心が千切れそうになる。

 

(まだだ。まだ、その時じゃない)

 

 建物の影に入る直前、もう一度だけ振り返る。

 

 訓練場には、再び活気が戻っていた。剣と剣がぶつかり合う音。若者たちの掛け声。

 

 その中で、カイルは誰よりも真摯に剣を振るっていた。汗が飛び散り、朝日がその雫をキラキラと輝かせる。

 

 美しい。

 

 そして、儚い。

 

(必ず守る。この輝きを、この優しさを、この命を)

 

 リリアナは、その姿を目に焼き付けてから、建物の中へ入っていった。

 

 始まったばかりの戦いは、既に静かに、しかし確実に、激しさを増していく予感に満ちていた。

 

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