泡沫紀行   作:みどりのかけら

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旅とは、見知らぬ地を歩くことではない。
自分のなかの時間が、外の世界とふいに響き合う瞬間を探す行為だと思う。

その土地に立ち、風に触れ、木々のささやきを聞いたとき、
心のどこかに沈んでいた記憶がじんわりと浮かび上がる。

そして、それは確かに「今ここ」にしか存在しない風景でありながら、
なぜだか「ずっと前から知っていたもの」のようにも思えるのだ。

この旅のなかで、私はとある場所に足を踏み入れた。

そこは、氷の記憶が眠る、遥かなる原生の森だった。


永遠を抱く白の記憶
0001 氷の記憶


冷たい霧が森を覆っていた。朝の陽はまだ樹冠の向こうに隠れ、すべてを青白く包むように、その場所は静かに息をしていた。

 

私は重たい登山靴の底で、まだ湿り気を帯びた落ち葉を踏みしめながら、一歩一歩と森の奥へと進んでいた。

 

 

 

道と呼べるほど明確なものはなく、ただ人の気配が消えたその先に、自然がそのままの姿で待っていた。

 

原生林。

 

言葉にすると簡単だが、この場所に立つとその意味が変わる。

 

ただの森林ではない。ここには、時間が止まったままのような感覚がある。

草も、苔も、木々のうねりも、そして鳥の声までもが、何千年という時の流れをまといながら、この森の肌の一部となっていた。

 

 

 

足を止め、目を閉じる。

 

風が、梢をすべるように吹き抜ける。

高く、低く、何層にも重なる木の葉の隙間から、朝の光がしずかに漏れてくる。

一筋の光が、濃い緑の中に差し込み、霧を割って水晶のように輝いた。

 

「ここは、氷が眠る森だ」

 

どこかで聞いたその言葉を思い出した。

 

『氷が眠る』

 

――つまり、それはこの森の時間が、遥か氷河の時代と繋がっていることを意味する。

 

実際、冬のこの地は、厳しく、清らかで、美しい。

だが私が訪れたのは、雪の名残がようやく解け、命の息吹が森の奥から溢れ出す季節だった。

地面から伸びる草は淡い黄緑、芽吹いたばかりのブナの葉は透けるような薄緑。

その上を、冬を越した動物たちの足音が、かすかに響いていた。

 

 

その日、私は五つの湖を巡る道に足を踏み入れていた。

 

湖はまだ朝の光を反射せず、まるで地面に空いた穴のように黒く静まっていた。

 

だがその水面に映るものは、確かに天だった。

青ではなく、どこか琥珀にも似た色。

 

空と地がゆっくりと混ざりあい、風がそれを撫で、ふたたび元に戻す。

そんな呼吸のような湖面の揺らぎを見ていると、自分の存在がふいに曖昧になる。

 

歩くたびに現れる湖は、まるで異なる顔を持っていた。

 

ある湖は、鏡のように空を映し、

ある湖は、深い森の闇を湛えていた。

岸辺には水芭蕉が咲いていた。

まだ咲き始めのその白は、どこか儚げで、まるで冬の残影のようだった。

 

私はその白さに、ふと立ち止まる。

――ここは、命が帰る場所だ。

 

そのときだった。

森の奥から、かすかな気配がした。

 

ふり返ると、そこには一頭の鹿がいた。

まだ若い個体で、警戒心を露わにしながらも、こちらをまっすぐに見つめていた。

 

 

その瞳の深さに、私はしばらく言葉を失った。

 

 

それは野生という言葉では足りない。

むしろ、神話の一場面に迷い込んだような、そんな錯覚すら覚えた。

 

鹿はしばらくじっとこちらを見ていたが、やがて静かに草を踏みしめ、森の奥へと消えていった。

その足取りには、迷いも、恐れも、なかった。

 

まるで「この森は我が家だ」と言わんばかりに、自然と溶け込んでいった。

 

人の手が入っていない、というのは、こういう景色のことを言うのだろう。

 

それは荒れている、という意味ではない。

むしろ、すべてが整いすぎているのだ。

 

バランスを取りながら、傷つきながら、それでも命は繋がり、循環し、季節と共に変化していく。

森のどこを見ても、その営みが息づいていた。

 

 

道を外れ、小高い丘に登ると、一帯を見下ろすことができた。

湖が、森の静寂のなかに点在している。

それぞれがまるで五つの瞳のように、空を見上げ、時を記憶している。

 

私は息をのんだ。

 

言葉にならない静けさが、そこにはあった。

何千年、何万年という歳月を経て、今、ここにある風景。

 

それはまるで、地球の記憶の断片を見ているようだった。

 

そのあと、私は何度も足を止めた。

 

苔むした倒木、

ささやかな沢の流れ、

風に揺れる葉音、

空を横切る鷲の影。

 

すべてが、それぞれの時を刻みながら、静かに存在していた。

 

 

まるで、何か大きなものに見守られているような感覚だった。

 

 

森を抜ける頃、空は完全に晴れていた。

 

朝の霧は溶け、陽光が湖面を眩しく照らしていた。

鳥のさえずりが、明るいリズムに変わっている。

 

私はふたたび湖の畔に立ち、水面を見つめた。

そこにはもう、朝の黒い穴のような姿はなかった。

 

光と風と空のすべてが、水のなかで混ざり合い、ひとつの風景を形づくっていた。

その一瞬、私は確かに見たのだ。

 

湖の底に、古代の氷が眠るのを。

それは形ではなく、感覚だった。

 

 

命の始まりのような、記憶の源のような、言葉にはできない何か。

 

 

私はしばらく立ち尽くしていた。

 

 

そして静かに、その場を離れた。

もう二度と、同じ光景には出会えないと知りながら。

 

 




旅の途中、偶然に訪れたその森は、
私の中に深い沈黙を残していった。

どんな言葉よりも、風と木々と水の声が、遥かな時間を語っていた。

旅を続ける者として、この景色は私にとって、ひとつの原点のようなものになった。

名前も地図もいらない。
ただ、あの湖と森があったという事実だけが、物語として残ればそれでいい。

私はまた歩き出す。

この「氷の記憶」が、誰かの心の中にも静かに残ることを祈って。
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