泡沫紀行   作:みどりのかけら

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夏の深く、緑の底へと降りていくような道がある。
風は囁き、光は迷い、足音は森に溶けて消えてゆく。

この物語は、そんなひとつの旅の記憶。
名前のない場所で、言葉にならぬままに息づくものたちの気配を、ただそっと掬い上げたくて書いた。

木洩れ陽の向こうにひそむ、もうひとつの季節の鼓動に耳を澄ませながら。


0105 木洩れ陽の迷宮

足もとに落ちた一片の光が、露に濡れた葉をわずかに震わせていた。

深い緑の重奏のなか、ひと筋の小径が息を潜めて続いていた。

苔むした岩は言葉もなく、記憶を秘めたまま眠りについている。

遠くで、名も知らぬ鳥の声が、ひととき風の翅に運ばれてゆく。

空は見えず、ただ葉と葉のすき間からこぼれる金色のかけらが、時の輪郭を描いていた。

 

踏みしめるたび、地は柔らかく、どこか懐かしい温もりを秘めていた。

樹々の根が、まるで古の語り部のようにうねりながら小径を包み、旅人の歩みを緩やかに導く。

深く深く息を吸い込めば、土と水の気配が胸の奥へ染み渡ってゆく。

湿った苔の香り、かすかな花の気配、遠く落ち葉の下で眠る虫たちの息吹までもが、ひとつの静かな調べとなって、森の奥へと導いた。

 

ここでは、時間が眠っている。

 

光は決して焦らず、静かに、優しく、葉のあいだから地上へ舞い降りてくる。

風は話し声のように低く、耳を澄ませば、いくつもの記憶が重なってささやいているようだった。

誰かの足音が、かつてこの道を通り過ぎたこと。

ふたりで並んで歩いた影が、ひとつに溶けて消えていったこと。

森は、すべてを忘れずに抱いている。

 

やがて小径はゆるやかに曲がり、影が濃くなる。ひとつの木の根元に、雫を抱いた苔の島があり、そのなかにわずかな陽だまりが残されていた。

そこはまるで、何か大切なものを守るために存在しているかのようだった。

旅人は立ち止まり、耳をすませ、息を殺した。

音はなく、ただ緑の中に、時間の層だけが静かに降り積もっていた。

 

樹々は高く、幹は太く、どれもまるで空へと祈る指のようにそびえ立っていた。

その肌には無数の苔が寄り添い、かつての雨と風の記憶を刻んでいる。

陽が射し込むたび、その表面がわずかに揺れ、金と翡翠の光が、木洩れ陽の迷宮を形づくる。

そこにいると、自らの輪郭さえ曖昧になり、森の一部として溶け込んでいくような錯覚に陥る。

声もなく、名もなく、ただその一瞬に在るものとして、静かに息をしている。

 

一歩ごとに、過去と未来の境が揺らぎ、いまだけが確かなものとなる。

 

そして、ふと、風が変わる。森の奥から、冷たい気配が流れてきて、肌の上をなぞっていった。

そこにはまだ、誰の足跡も届かぬ場所があるのだと、囁くように。

旅人は目を閉じ、掌で幹に触れる。

ざらついた感触。

しっとりとした湿り気。

長い年月を越えてきた木々の声が、掌を通して語りかけてくる。

聞こえるのは、ことばではなく、もっと遠く深い、根の奥に宿る響きだった。

 

光が傾く。鳥の声がふたたび空へ舞い、木洩れ陽が濃くなる。

葉の裏に潜んでいた雫が、ひとつ、地へと落ちる。静かな音。それは、森が語る夢のはじまりか、あるいは忘れ去られた記憶の目覚めか。

 

道はまだ、終わらない。

 

木の間を抜けるたび、光の模様が移ろい、その下を歩くたびに旅人の影もまた、幾たびも姿を変えていった。

ときに細く、ときに滲み、ときに輪郭をなくして土に溶けた。

まるで、自分という存在がこの森の深みに溶けてゆくようだった。

心の奥に沈んでいた感情が、名もなく形もなく、ひと粒の露となって揺れていた。

 

道はやがて、ほの暗い湿地へと迷い込む。

足もとはやわらかく沈み、遠くには水を湛えた影が揺れていた。

一本の古い倒木が、まるで森がひととき眠りについたかのように、深く静かに横たわっている。

その表面には小さな茸と緑の苔が寄り添い、時折吹く風が、それらをそっと撫でていた。

そこには生と死の境などなく、すべてが循環のなかでやさしく抱き合っていた。

 

水辺に差し込んだ光が、ひとときだけ、金の糸のように漂い、小さな羽虫がその上を滑るように舞っていた。

旅人は水面にしゃがみこみ、手を浸してみる。

冷たい。

けれど、ただの冷たさではなかった。

それははるか昔、雲から零れたしずくが、幾千の葉を伝ってたどり着いた、長い旅路の終わりのような温度だった。

 

森は語る。

けれど、その声は耳ではなく、肌で、肺で、胸で聞くものだった。

 

湿地を越え、ふたたび上りの道が現れる。

木の根が地表に浮かび、うねるように連なっている。

その合間を縫うようにして歩を進めると、背後から音もなく霧が忍び寄っていた。

やがて、足もとから世界は薄くなり、色も輪郭もすべてがひとつの白に包まれていく。

 

森が夢を見ている。

 

そのなかで旅人は、誰でもないものとして歩き続ける。

影もなく、音もなく、ただ湿った足音だけが、自分の存在をかろうじて証明していた。

けれどその音さえも、霧に吸われて、すぐに消えてしまう。

何もかもが曖昧になり、過去も未来も遠ざかっていく。

今という瞬間だけが、朧に浮かんでいた。

 

やがて霧が薄れ、木々の間から光が戻ってくる。

空を仰げば、まだ日は高く、けれど時間は確かに流れていた。

森の奥、葉の隙間から差し込むひと筋の光が、まるで道しるべのように地を照らしていた。

その光の先に、風のたまり場のような、ひらけた空間が広がっている。

 

そこには一本の樹があった。

 

周囲のどの木よりも高く、太く、深く地に根ざしたその姿は、森そのものの心臓のようだった。

幹には無数の傷跡と苔の模様が刻まれ、それぞれがまるで何かの記憶を語っているかのようだった。

旅人はその前に立ち、黙って息を吸った。

目を閉じると、風の音のなかに、遠く遥かな歌が微かに聞こえた気がした。

 

それは、誰かが森に残していった祈りか、あるいは森が誰かに捧げたまぼろしの唄か。

 

しばらくのあいだ、旅人はその木の前で、動かなかった。

 

ただ、風にそよぐ葉のざわめきを聞いていた。

 

ただ、時間の彼方から差し込む、木洩れ陽のひとすじを見つめていた。

 

すべてが静まり返ったその一瞬に、森はふたたび眠りへと還っていった。




森を歩くとき、目に映るものよりもずっと多くのものに触れている気がする。
それは音であり、香りであり、あるいは誰かの記憶のかけらかもしれない。

「木洩れ陽の迷宮」は、眠るように在る緑の気配を追った旅だった。
ただそこに佇むことで、言葉にならぬ感情と出会える。
そんな瞬間を、小さくすくって綴った。

あなたのなかにも、まだ知らぬ森がそっと息づいていますように。
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