泡沫紀行   作:みどりのかけら

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まだ形を持たぬ記憶が、胸の奥でかすかに揺れている。
それは名を持たず、触れればほどけてしまうほど淡い。
歩き出す前から、すでに何かを辿っている気配だけが残っていた。


足裏に伝わる土の冷えが、忘れていた時間を静かに呼び起こす。
見上げた空はどこまでも透き通り、過ぎた季節の影を含んでいる。
その広がりの中で、私はまだ言葉にならないものを抱えていた。



1066 花の雲が流れる妖精の堤

薄明の気配がまだ残る空の下で、淡い花びらが流れに沿って静かに揺れていた。

足裏に伝わる土のやわらかさが、冬の名残をゆっくりほどいていく。

 

 

川面に映る雲はほどけた絹のように頼りなく、触れれば崩れてしまいそうだった。

風がひとすじ通り抜けるたび、花の影が水に散り、私の影も細かく裂けていく。

指先にかすかな冷えが残り、季節の境目に立っていることを知らせていた。

 

 

堤の上は白と淡紅の重なりで、空と地の境が曖昧に溶けていた。

歩くたびに衣の裾へ触れる花の気配が、ひそやかなざわめきを連れてくる。

 

 

遠くでひばりの声がほどけ、音の粒が空へ昇っていく。

その響きは胸の奥にやわらかく沈み、見えない水紋のように広がった。

かすかな甘い匂いが風に混じり、舌の奥に春の気配を残していく。

 

 

花の下を進むうちに、時間の流れがゆるやかに歪んでいく。

昨日の記憶と今日の光が混じり合い、どちらも同じ色に染まっていく。

 

 

足元に落ちた花びらはまだ湿り気を帯び、踏むたびにわずかな音を立てた。

その感触がかすかな痛みのように残り、歩幅を少しだけためらわせる。

風が止むと、音のない白さがあたりを満たし、息の形さえ曖昧になる。

それでも胸の内では、なにかがほどけて流れていく気配があった。

 

 

光は次第に高くなり、花の影を短く削っていく。

まぶたの裏に残る白さが濃くなり、視界の輪郭がゆるやかに滲む。

 

 

掌に触れた幹はひんやりとして、内側に静かな水の気配を抱いていた。

その冷たさが腕を伝い、身体の奥へゆっくりと沁み込んでいく。

花のやわらかさとは異なる確かさが、そこにだけ宿っていた。

 

 

風が再び動き、花の雲がゆるやかに流れていく。

その流れに自分の呼吸も引き寄せられ、知らぬ間に歩みがほどけていった。

 

 

やがて光はわずかに傾き、花びらの影が長く引き延ばされていく。

足元の白は淡く透け、土の色が静かに戻り始めていた。

 

 

流れるものと留まるものの境が曖昧になり、歩みの重さが薄れていく。

袖に触れた花びらがすぐに離れ、触れたことさえ曖昧に消えていく。

その儚さが、指先にだけわずかな余韻を残した。

 

 

川面は穏やかに光を返し、空の深さをそのまま抱え込んでいた。

目を凝らすほどに奥行きは遠のき、届かぬものばかりが増えていく。

 

 

乾きかけた花びらが風に擦れ、かすかな音を立てた。

その細い響きが耳の奥でほどけ、記憶の輪郭を揺らしていく。

足先に伝わるわずかな凹凸が、今ここにある確かさを支えていた。

 

 

香りはやや薄れ、かわりに土の匂いが静かに立ち上ってくる。

その重みが胸の奥に沈み、軽やかだった感覚をゆるやかに引き戻す。

 

 

堤をなぞるように歩みを進めると、風の向きが微かに変わる。

その違いを肌で受け取り、同じ場所がもう同じではないと知る。

視線の先で花の層が重なり、奥行きだけが深く沈んでいった。

触れぬ距離にあるものほど、鮮やかに揺らめいていた。

 

 

手のひらに残る冷えはいつの間にかやわらぎ、かわりにぬくもりが広がる。

それでも指先には、かすかな湿り気が名残のようにとどまっていた。

 

 

やがて花の密度はゆるみ、空の青が静かに広がり始める。

流れていたものは見えなくなり、ただ光だけが穏やかに残っていた。

 




すべてが過ぎ去ったあとも、かすかな光だけが胸の奥に残っている。
触れたはずのものは形を失い、ただ温度だけが静かに漂う。
振り返らずとも、そこにあった流れが確かに続いていると知る。
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