それは名を持たず、触れればほどけてしまうほど淡い。
歩き出す前から、すでに何かを辿っている気配だけが残っていた。
足裏に伝わる土の冷えが、忘れていた時間を静かに呼び起こす。
見上げた空はどこまでも透き通り、過ぎた季節の影を含んでいる。
その広がりの中で、私はまだ言葉にならないものを抱えていた。
薄明の気配がまだ残る空の下で、淡い花びらが流れに沿って静かに揺れていた。
足裏に伝わる土のやわらかさが、冬の名残をゆっくりほどいていく。
川面に映る雲はほどけた絹のように頼りなく、触れれば崩れてしまいそうだった。
風がひとすじ通り抜けるたび、花の影が水に散り、私の影も細かく裂けていく。
指先にかすかな冷えが残り、季節の境目に立っていることを知らせていた。
堤の上は白と淡紅の重なりで、空と地の境が曖昧に溶けていた。
歩くたびに衣の裾へ触れる花の気配が、ひそやかなざわめきを連れてくる。
遠くでひばりの声がほどけ、音の粒が空へ昇っていく。
その響きは胸の奥にやわらかく沈み、見えない水紋のように広がった。
かすかな甘い匂いが風に混じり、舌の奥に春の気配を残していく。
花の下を進むうちに、時間の流れがゆるやかに歪んでいく。
昨日の記憶と今日の光が混じり合い、どちらも同じ色に染まっていく。
足元に落ちた花びらはまだ湿り気を帯び、踏むたびにわずかな音を立てた。
その感触がかすかな痛みのように残り、歩幅を少しだけためらわせる。
風が止むと、音のない白さがあたりを満たし、息の形さえ曖昧になる。
それでも胸の内では、なにかがほどけて流れていく気配があった。
光は次第に高くなり、花の影を短く削っていく。
まぶたの裏に残る白さが濃くなり、視界の輪郭がゆるやかに滲む。
掌に触れた幹はひんやりとして、内側に静かな水の気配を抱いていた。
その冷たさが腕を伝い、身体の奥へゆっくりと沁み込んでいく。
花のやわらかさとは異なる確かさが、そこにだけ宿っていた。
風が再び動き、花の雲がゆるやかに流れていく。
その流れに自分の呼吸も引き寄せられ、知らぬ間に歩みがほどけていった。
やがて光はわずかに傾き、花びらの影が長く引き延ばされていく。
足元の白は淡く透け、土の色が静かに戻り始めていた。
流れるものと留まるものの境が曖昧になり、歩みの重さが薄れていく。
袖に触れた花びらがすぐに離れ、触れたことさえ曖昧に消えていく。
その儚さが、指先にだけわずかな余韻を残した。
川面は穏やかに光を返し、空の深さをそのまま抱え込んでいた。
目を凝らすほどに奥行きは遠のき、届かぬものばかりが増えていく。
乾きかけた花びらが風に擦れ、かすかな音を立てた。
その細い響きが耳の奥でほどけ、記憶の輪郭を揺らしていく。
足先に伝わるわずかな凹凸が、今ここにある確かさを支えていた。
香りはやや薄れ、かわりに土の匂いが静かに立ち上ってくる。
その重みが胸の奥に沈み、軽やかだった感覚をゆるやかに引き戻す。
堤をなぞるように歩みを進めると、風の向きが微かに変わる。
その違いを肌で受け取り、同じ場所がもう同じではないと知る。
視線の先で花の層が重なり、奥行きだけが深く沈んでいった。
触れぬ距離にあるものほど、鮮やかに揺らめいていた。
手のひらに残る冷えはいつの間にかやわらぎ、かわりにぬくもりが広がる。
それでも指先には、かすかな湿り気が名残のようにとどまっていた。
やがて花の密度はゆるみ、空の青が静かに広がり始める。
流れていたものは見えなくなり、ただ光だけが穏やかに残っていた。
すべてが過ぎ去ったあとも、かすかな光だけが胸の奥に残っている。
触れたはずのものは形を失い、ただ温度だけが静かに漂う。
振り返らずとも、そこにあった流れが確かに続いていると知る。