泡沫紀行   作:みどりのかけら

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まだ歩き出す前、足もとに広がる見えない起伏を、指先だけでなぞるように確かめていた。
乾いた空気は静まり返り、これから触れるであろう景色の輪郭を、かすかに胸へと押し込んでくる。


記憶はいつも遅れて訪れ、今あるはずのものを、ほんの少し過去へと押しやってしまう。
そのずれの中で、わたしは確かに歩き始め、触れていないはずの柔らかさをすでに知っている。
足裏にはまだ何もないはずなのに、温度だけが先に残り、行き先の形を静かに示していた。



1067 緑の丘に眠る羊たちの夢幻

薄い雲がほどける朝、やわらかな匂いが足もとから立ちのぼり、まだ名のない色が丘の斜面を満たしていた。

踏みしめる土はかすかに湿り、指先で触れると細かな粒がほどけて、静かな温度を掌に残した。

 

 

白いものたちが点在し、息のように揺れながら、風と同じ速さで丘の呼吸に溶けていく。

近づくほどに毛並みは淡く光り、陽を含んだ糸の束のように、視線をやさしくほどいた。

足首に触れる草はまだ冷たく、朝露が肌に細い線を引き、歩幅をわずかにためらわせる。

 

 

斜面を上るたび、胸の奥に沈んでいたものが少しずつ軽くなり、息の重さがほどけていく。

 

 

群れの間をすり抜ける風は、かすかな鈴のような気配を帯び、耳の奥で遠い記憶を震わせた。

触れた毛は思いのほか乾いており、掌に残るざらつきが、時間の経過をささやくようだった。

 

 

陽はゆっくりと角度を変え、白と緑の境目に長い影を落とし、その影がまた別の輪郭を生む。

その重なりの中で、境界は曖昧になり、目に映るものすべてが同じ呼吸を共有しているように感じられた。

 

 

かすかな鳴き声が遠くでほどけ、音は形を持たないまま、胸の内側に柔らかく沈んでいく。

耳を澄ますほどに静けさは厚みを増し、やがて音と無音の区別が溶けていった。

歩みを止めると、足裏に伝わる地のぬくもりが、脈のようにゆるやかに打ち続けていた。

 

 

低く伏せた白い背が連なり、まるで丘そのものが眠りについているかのように見える。

 

 

指先で草を裂くと青い匂いが立ち、舌の奥にかすかな苦みが広がり、遠い日の気配が滲んだ。

風に撫でられた頬は少し乾き、残された温もりが、過ぎたものを静かに引き止める。

 

 

陽はさらに傾き、白い背に淡い影が重なり合い、丘の表情はゆるやかに深みを増していく。

草の間を渡る風は少しだけ冷たさを帯び、袖口から忍び込み、肌の内側に静かな震えを残した。

 

 

群れの隙間に腰を下ろすと、土のやわらかさがじわりと伝わり、背を預けた空気がわずかに沈む。

掌で支えた地面は温もりを蓄え、指の形に沿ってゆっくりと戻り、時の遅さを告げていた。

白いものたちは目を閉じたまま、呼吸の波だけを残し、丘の鼓動と重なり合っていた。

 

 

遠くの輪郭がぼやけ、色と影の境がほどけるにつれ、視界はひとつの層へと溶けていく。

 

 

足を伸ばすと草が擦れ、乾いた音が小さく弾け、かすかな痛みがふくらはぎに残る。

その刺激はやがて消え、代わりに緩やかな温もりが広がり、身体の輪郭を曖昧にした。

 

 

空は次第に淡さを増し、白と青のあわいに、言葉にならない色が滲み出していた。

その色は触れることなくただ在り、視線の奥で静かに揺れ続ける。

 

 

ひとつの背がゆっくりと動き、毛の隙間からこぼれる光が、細い糸のように揺れた。

その揺らぎに合わせて風もまた形を変え、丘の上を巡る時間をやさしく編み直す。

触れた指先に残る微かな温度が、確かにそこにあったものを静かに示していた。

 

 

やがて影は長く伸び、白い群れはひとつの塊となり、境界を失っていく。

 

 

立ち上がると足裏に残ったぬくもりが薄れ、代わりに冷えた空気がゆっくりと満ちてきた。

振り返ると、揺れていたものたちはすでに静けさの中に沈み、形をほどいている。

そのまま歩き出すと、背後に残る気配だけが、かすかに続いていた。

 




すべてを通り過ぎたあと、振り返ることはなかったが、背に触れる空気だけがやけにやさしかった。
何も持ち帰らないまま、それでも確かに残り続けるものが、胸の奥でかすかに息をしている。
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