泡沫紀行   作:みどりのかけら

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霧深く、風が言葉を忘れる頃、ひとつの山へと足を向けた。

その地には、古より青き龍が息づいていたという。
だが語り継がれる声はすでに途絶え、今はただ、岩に残された痕跡が、誰にも読まれぬ詩のように眠っている。

夏の深み、葉の匂い、水の気配、そして言葉にできない静けさが、歩くごとに染み込んでくる。

この地で感じたことは、記録でも記憶でもなく、風のなかに散ったものをひとつ拾い上げて紙に写したようなもの。


0107 龍の息吹が残る霊峰の境界

霧が昇る前の朝の匂いには、まだ誰の言葉も触れていない。

湿りを含んだ風が頬をかすめ、遠い梢で揺れる葉音が、静かな合図のように耳へ届く。

足元には露をまとった苔の絨毯が広がり、ひとつひとつの石が、長い眠りの中で記憶を深めているかのようだった。

 

小さな流れが音もなく岩を撫で、わずかに光を返している。

空はまだ色を持たず、ただうっすらとした青の気配だけが、東の木立の向こうに溜まっている。

水面には鳥の羽が一枚、音を立てずに浮かび、その周りで揺れるさざ波が、やがて名もなき旋律を紡ぎ出す。

 

道は細く、枝が左右からせり出し、陽の気配さえまだ届かぬ深い場所。

背後では蝉の声が短く切れ、遠ざかる音にふと立ち止まる。

誰かの足跡がここにあったのか、それとも風が葉を押し分けただけなのか、わからないまま足を進める。

 

やがて、斜面を這うように続く石段が現れた。

苔むし、崩れかけた縁には、かつて祈りを捧げるために積まれたもののような気配があった。

すぐ脇の岩肌には、褪せた線刻がひっそりと刻まれており、その形は、ひと目で意味をとらえるにはあまりに古く、けれど指をなぞればかすかな息吹が感じられる気がする。

 

登るにつれ、空気が変わった。

冷たいわけでも、温かいわけでもない。

けれど胸の奥で、何か忘れかけていた名を呼ばれるような、そんな静かな震えが生まれる。

振り返れば、すでに霧が谷を埋め尽くし、来た道は白く飲み込まれていた。

 

立ち止まると、風が前髪をめくった。

その瞬間、何処からか土の匂いに混じって、燻された木の香が流れてくる。

誰かが焚いた火ではない。

長い年月の中で、山が自ら抱えた記憶のひとつが、風に乗って零れ落ちただけ。

 

さらに進むと、岩に囲まれた小さな泉が現れた。

水面は薄氷のように静まり返り、葉一枚落ちただけで、その全てがたわむようだった。

泉の奥、決して届かぬ深みに、青く光る何かが眠っている気がした。

それが光であるのか、あるいは目の錯覚であるのかは分からない。

ただ、その光には、形を持たない祈りが宿っているようだった。

 

あたりには声がない。

獣の気配さえなく、ただ風が枝を撫で、時折、どこか遠くで石が転げ落ちる乾いた音だけが響く。

 

丘の尾根に出ると、世界がひらけた。

そこには言葉に置き換えられない風景が広がり、すべての輪郭が、淡く震える光に包まれていた。

木々の葉は蒼く、空はまだ白く、山の息遣いだけが確かにそこにあった。

 

その尾根の先に、岩で囲まれた半円の空間があった。

中心にはひとつ、背の低い石柱が立ち、そこに刻まれた紋様は、まるで龍の鱗のようだった。

風がその表面を撫でるたび、表層の苔が揺れ、まるで眠っていた記憶が目を覚ますように、影が走った。

 

掌を柱に触れると、ほんのわずかだが、温もりがあった。

それは太陽のものではない。

もっと深く、土や水の奥から届くような、山そのものの脈動。

 

この地は、語られなかった祈りの終着であり、始まりでもある。

 

そして、山の奥からわずかに響いた、低く、長い、風とも声ともつかぬ音が、かつてここに何かがいたことを、そっと思い出させた。

 

石柱から手を離すと、指先に残る感触が、音もなく皮膚に沈んでいった。

風が一度、ぐるりと円を描いて吹き抜ける。

草の葉が波のように揺れ、足元に落ちた影が、さながら水紋のように広がっていく。

 

雲が流れ、光が山肌を移ろう。

木の葉に透けた光の粒が、まるで龍の鱗のようにきらめき、風に乗って一瞬だけ舞い上がる。

どれもが消えてゆくものなのに、そこに漂う静けさは、永遠のようだった。

 

背を向け、再び歩き出す。

山の斜面には薄く花が咲いていた。

色は淡く、形は儚く、それでいて何百年もの間、この風の中で咲き続けてきたような強さがあった。

足音に驚いたのか、小さな虫が一匹、葉陰から飛び立つ。

その羽音はかすかで、すぐに風にかき消えた。

 

踏みしめるたび、地面から静かな鼓動が伝わってくる。

目には見えぬ命の流れが、この山の骨を巡っているのだと、そんな気配に包まれる。

石の割れ目から流れる水は、わずかな光を集め、草の根元で消えていった。

どこへゆくのかは知らない。

ただ、すべてのものが、それぞれの終わりへ向かって歩んでいる。

 

やがて、細く、そして鋭く切り立った尾根へと差しかかる。

風は強まり、空気は澄みすぎて、ひとつの言葉さえ浮かばない。

ただ、何かがそこにいるという感覚だけが、背の奥にひたりと張りついていた。

 

遥か遠く、霞む峰々の合間に、かすかな蒼の光が浮かんでいる。

星がまだ昇るには早すぎる。

けれどその光には、夜の静けさと同じ深さがあった。

草が揺れ、葉が震える。ふいに、風の中に残り香のようなものが混じる。

水、苔、樹皮、そして何か焦げたような匂い。

それはかすかな記憶であり、遠い誰かの息づかいだった。

 

足元の岩に刻まれた線は、さっきの石柱のものとよく似ていた。

だが、より古く、より荒々しい。

大地がまだ若く、言葉も持たぬ頃に刻まれたものかもしれない。

そこに込められた力は、意味ではなく、ただ在るという存在の強さだけだった。

 

空が僅かに赤みを帯び始める。

陽が傾き、山の背を長く染めていく。

影が伸び、風は鋭くなる。目の前にぽっかりと開けた空間があった。

崩れかけた岩壁に囲まれ、中央に円を描くように小さな池がある。

水面は鏡のように穏やかで、空の色を深く映していた。

 

池のほとりには、ひと抱えほどの岩が立っていた。

その表面には、灰色の鱗のような模様が自然に浮き出ており、どこか獣の背中にも似た威圧感がある。

近づくと、そこに残された熱が、足元の空気をわずかに揺らしていた。

岩の下には黒く焼けた草があり、新しい芽がその隙間からわずかに顔を出していた。

 

この山には、まだ息づいている何かがある。

それは形を持たず、名も持たず、ただ風とともに現れては消えていく。

 

だが、確かに、いまここで、静かに、呼吸をしている。

 

空に一筋の雲が走る。

その形は尾を引く龍のようであり、池の水面に映る影もまた、それと寸分違わずなぞらえていた。

 

歩を止め、目を閉じる。

 

音もなく、時間が山の肌を流れていく。

草の葉が触れ合う音、遠くの木が軋む音、どれもが優しく、そして痛いほどに懐かしい。

足元の土の中に、何百年も昔の雨が眠っている気がした。

 

この境界の先には、もう言葉はいらない。

 

風だけが知っている。

あの蒼き龍が最後に目を閉じた場所を。

 

それを確かめるためだけに、足はまた、前へと向きを変える。




山を降りた今も、風の音が胸の奥に残っている。

ひとつひとつの葉が告げていた静かなざわめき。
岩のぬくもりに宿っていた、言葉なき祈りの気配。
それらは皆、物語というより、山が呼吸の合間に見せた一瞬の夢のようだった。

かつて龍がいたかどうか、それを確かめる術はない。
けれど確かに、あの地には何かが眠っていた。

それだけは、忘れずにいたい。
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