泡沫紀行   作:みどりのかけら

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まだ何も匂いのない道を、足裏の乾いた感触だけを頼りに進んでいた。
空気は澄みすぎており、胸に入るたびにわずかな痛みを残す。


視界の奥で、かすかな揺らぎが生まれ、形にならぬ気配が漂いはじめる。
それは光でも影でもなく、ただ感覚の端に触れて離れない。
歩幅がわずかに変わり、理由のない引力に引かれていく。


掌を閉じても開いても、何も掴めない静けさだけが残る。
その空白が、これから満たされる予感をゆっくりと孕んでいく。



1088 黄金の香りが踊る炎の小径

湿り気を帯びた風が頬を撫で、遠い火の匂いがゆらりと立ちのぼる。

足裏に残る土の温度が、まだ昼の名残を静かに抱えている。

 

 

小径の先で、油が弾ける気配が淡い光となって揺れている。

香ばしさは甘くも苦くもなく、ただ腹の奥へゆっくり沈んでいく。

指先に触れた空気が、わずかに粘りを帯びて重たく感じられる。

 

 

歩みを進めるほど、焼かれた生地の匂いが濃くなり、胸の内側をくすぐる。

 

 

掌に残る汗が冷え、布の袖が肌に貼りつく感覚が妙に鮮明になる。

遠くで何かが返されるたび、乾いた音が夜に小さく波紋を広げる。

 

 

淡い橙の灯りが、道の縁を柔らかく照らし、影を曖昧に溶かしていく。

その中で揺れる匂いは、記憶に触れそうで触れない距離を保っている。

 

 

唇に触れた空気が油の粒子を含み、舌の奥にかすかな塩気を残す。

腹の底で静かに鳴る感覚が、歩幅をわずかに狭めていく。

手のひらに伝わる夜気は、どこか柔らかく、包まれるように重い。

 

 

足元の砂利が小さく鳴り、一定だった歩調が自然に崩れていく。

 

 

火の気配が近づくにつれ、肌の表面に薄く温もりが広がる。

その温もりは懐かしさに似ているが、確かな形を持たず漂っている。

 

 

火のそばに近づくと、空気がわずかに揺らぎ、視界の輪郭がやわらかく歪む。

その歪みの中で、焦げた香りがゆっくりと形を持ちはじめる。

 

 

焼かれた面の匂いが濃く、鼻腔の奥で丸く膨らみ、消えずに留まる。

指先に触れる熱がかすかに刺さり、すぐに引いていく感覚が繰り返される。

 

 

足を止めると、衣の擦れる音がやけに大きく耳に残る。

 

 

薄く広がる香りが、夜の湿りと混ざり合い、境界を曖昧にする。

舌の奥に浮かぶ味の気配が、まだ見ぬ形を求めて揺れている。

 

 

掌を開くと、微かな油の匂いが皮膚に移り、なじむように広がる。

そのぬめりは不快ではなく、どこか穏やかな重さを持っている。

呼吸のたびに胸が満ち、空腹とも満足ともつかぬ感覚が往復する。

 

 

火の揺れが目に映り、瞬きのたびに残像が薄く重なる。

 

 

足裏の土がわずかに柔らかく沈み、体の重みを受け止める。

その沈み込みが、ここに留まる理由のように静かに広がる。

 

 

香ばしさがやがて輪郭を持ち、遠い記憶の表面をかすめていく。

触れたはずのない光景が、匂いに導かれて淡く浮かび上がる。

それは確かさを持たず、ただ揺れながら消えかけている。

 

 

火の残り香が衣に染み込み、歩くたびに微かに立ち上る。

その香りは先ほどよりも淡く、しかし確かに身体の内側へ戻ってくる。

 

 

足裏に伝わる土の冷たさが増し、温もりの記憶を静かに遠ざける。

胸の奥に残るかすかな満ちが、言葉にならぬまま夜に溶けていく。

 




遠ざかる熱の気配が、背中に薄く残り続ける。
振り返らずとも、そこにあった揺らぎだけは確かに感じられる。


指先に残った油の気配が、時間を遅らせるように消えずにいる。
乾いたはずの皮膚に、わずかな重みがとどまり続ける。
その感触はやがて輪郭を失い、記憶の奥へ沈んでいく。


再び同じ道に立っても、同じ匂いには出会えないと知っている。
それでも足裏の感触だけは変わらず、静かに続いていく。
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