泡沫紀行   作:みどりのかけら

1089 / 1192
まだ名を持たぬ光が、まぶたの裏で静かに揺れていた。
遠くでほどける気配だけが、歩き出す前の身体に淡く触れる。


足を踏み出すたび、見えない水脈のようなものが内側で軋む。
その響きはかすかで、確かめようとするほど遠ざかる。
触れられぬものに導かれる感覚だけが、ゆるやかに続いていた。


やがて視界の奥に、空とも水ともつかぬ明るさが滲み出す。
境のないその広がりは、記憶の形をほどくようにやわらかい。



1089 湖面に映る天空の鏡

淡い光がほどける水際に立つと、空の欠片が静かに沈んでいるのが見えた。

足裏に伝わる砂の冷えが、まだ名残を抱えた朝の気配を教えてくる。

息を整えるたび、胸の奥に澄んだものがゆっくりと満ちていく。

 

 

水面は揺れながらも崩れず、映る雲をやわらかく抱きとめている。

指先で触れればほどけそうなその輪郭は、確かにそこにありながら触れられない。

立ち尽くすあいだ、影と光の境が曖昧になっていくのを感じていた。

 

 

歩みを進めると、小石が擦れ合う乾いた音がかすかに続く。

湿った風が頬をなぞり、肌の上に薄く残る水気を運び去る。

 

 

岸辺に残る足跡はすぐに消え、形を保たぬまま記憶の外へと沈む。

その消え方に目を奪われ、ここにいた確かさが逆に遠ざかる気がした。

風がひとつ吹くたび、水は別の空を映し直す。

同じ場所に立ちながら、異なる時間の縁をなぞっているようだった。

 

 

草の間を抜けると、かすかな青い匂いが立ちのぼる。

指で葉を撫でると、薄い水膜が弾けて冷たさが残る。

その感触がゆっくりと指先に溶け込み、やがて何もなかったかのように消える。

 

 

光が高くなるにつれて、水の色は深みを帯びていく。

底の見えぬ暗さが、映る空をいっそう鮮やかに押し上げる。

視線を落とすほど、遠くを覗き込んでいるような錯覚に包まれる。

 

 

石に腰を下ろすと、硬さがじわりと背に伝わる。

その確かな重みだけが、今ここにいることを繋ぎとめている。

 

 

しばらく目を閉じると、水音が内側に沁みてくる。

遠くから寄せては返す気配が、呼吸と重なり静かに揺れる。

開いたまぶたの奥で、さきほどとは違う光がゆっくりと形を結び始めていた。

 

 

陽は傾きはじめ、やわらかな影が水際に長く伸びる。

その影の揺らぎに沿うように、もうひとつの空が静かにほどけていく。

同じ場所にいるはずなのに、足元がわずかに遠のいた気がした。

 

 

歩みを緩めると、草が衣の端に触れてかすかな音を立てる。

乾きかけた葉のざらつきが、指先に淡く残る。

その微かな抵抗に、ここに在る輪郭を確かめるように触れ続ける。

 

 

水辺に膝をつくと、ひやりとした気配が膝裏から染み上がる。

掌を沈めれば、温度の異なる層が静かにほどけて混ざり合う。

触れたはずの境界はすぐに消え、何もなかったように戻っていく。

その儚さに、言葉にならぬ安堵がわずかに宿る。

 

 

風がやみ、映るものは揺らぎを止める。

空はそのまま深く落ち込み、水は受け止めることをやめない。

 

 

視線を移すたび、光の粒が細かく散り、また集まる。

それらは意味を持たず、ただ在ることで満ちている。

その無数のきらめきに、何かを数える習慣がほどけていく。

 

 

立ち上がると、足裏に残った冷えがゆっくりと広がる。

歩くたびにその感覚は薄れ、代わりに乾いた温もりが満ちてくる。

 

 

振り返れば、そこには先ほどまでの形が残っていない。

それでも確かに通り過ぎた気配だけが、背に静かに寄り添う。

消えたものを追うことなく、ただ前へと歩みを重ねる。

 

 

やがて水面は闇を含み、空の輪郭も溶けていく。

映るものも映されるものも区別を失い、ただひとつの深さとなる。

その奥行きに目を預けると、境のない静けさがゆっくりと満ちてきた。

 




去り際の風が、背に残る温度をそっとさらっていく。
振り返らずとも、そこにあったものの気配は消えきらない。


掌には何も残らず、ただ触れたときの冷たさだけがわずかに息づく。
それは形を持たぬまま、次の一歩へと静かに溶け込んでいく。


空は再びひとつに閉じ、水もまた深く沈黙する。
その静けさの中で、確かめることのないまま歩みは続いていく。
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