泡沫紀行   作:みどりのかけら

1090 / 1192
まだ形を持たない記憶が、足もとで静かに揺れていた。
触れる前からそこにあったはずの感触が、わずかに輪郭を帯び始める。


空気は乾ききらず、指先に薄い湿りを残して通り過ぎる。
そのかすかな重みが、見えない層の存在を知らせていた。
歩み出す前の静寂が、深く息を潜めている。


光は柔らかく広がり、境界を曖昧に溶かしていく。
その曖昧さの中で、確かめようとする意識だけがかすかに浮かび上がる。



1090 石畳に刻まれた古の物語の通り

薄い霧が足もとにたまり、石の連なりがゆるやかに息づいているように見えた。

乾いた表面に指先を触れると、ひやりとした記憶の層が皮膚に沈んでくる。

 

 

風はまだ柔らかく、落ち葉を巻き上げるほどの力を持たず、ただ静かに匂いだけを運んでいた。

遠くで擦れるような音がして、目に見えない何かが石の隙間を渡っていく気がした。

歩幅を小さく保ちながら、その響きに遅れないよう足を運んだ。

 

 

石畳のひとつひとつは微妙に角度を変え、同じ形を拒むように並んでいる。

靴底に伝わる硬さの違いが、過ぎ去った時間の厚みを測る目盛りのように感じられる。

 

 

光が傾き、表面の凹凸に細い影が差し込むと、そこに見えない線が浮かび上がる。

その線はどこかへ続いているはずなのに、視線を伸ばすほど曖昧にほどけていく。

掌に残る冷えが、進む方向を静かに選び取っているようだった。

 

 

落ち葉が重なり合う場所では、足裏にわずかな沈みが生まれ、柔らかな抵抗が返ってくる。

乾いた葉の縁が擦れる音が、遠い記憶の破片を揺らし、形のない情景を呼び寄せる。

それらはすぐに崩れ、ただ色だけを残して消えていく。

指先に触れた一枚が、脆くほどけて風へと還っていった。

 

 

空気は少しずつ冷え、吐く息に混じる重さが歩みを深くする。

足音が石に吸い込まれ、返ってこない静けさが耳の奥に溜まっていく。

 

 

わずかな湿り気が石の表面に滲み、光を鈍く反射している。

その光は揺らぎながら、かつて誰かが踏みしめた輪郭をなぞるように広がる。

膝のあたりに冷気がまとわりつき、身体の内側まで静かに侵してくる。

 

 

振り返ると、歩いてきた道はすでに形を失い、ただ同じ色の連なりとして広がっている。

確かに触れてきたはずの硬さや温度が、指の奥でぼんやりとほどけ始める。

それでも足は止まらず、見えない続きを求めて石の上に重ねられていく。

 

 

やがて石の継ぎ目に細い影が溜まり、そこだけ時間が深く沈んでいるように見えた。

足先でその境目をなぞると、わずかな段差が確かに存在し、過去と今を分けている気がした。

 

 

風は少しだけ強まり、乾いた葉が擦れ合う音を重ねていく。

その重なりは不規則でありながら、どこかで整えられた調べのように耳へ落ちてくる。

歩みを進めるほどに、その音が内側へ静かに染み込んでいった。

 

 

石の角に触れた指先がかすかに痛みを帯び、その鋭さが確かな存在を告げていた。

滑らかな部分とざらついた部分が交互に現れ、触れるたびに異なる感触を残していく。

 

 

薄く差し込む光が、落ち葉の隙間を縫うように流れている。

その流れは途切れることなく続いているようで、視線を追うほどに遠ざかっていく。

胸の奥にわずかな空白が広がり、その空白が歩みを促していた。

 

 

足裏に伝わる冷たさが次第に深まり、石の芯に触れているような感覚が残る。

重ねた一歩ごとに、体温が静かに奪われ、代わりに澄んだ静寂が満ちていく。

呼吸はゆっくりと整い、周囲の気配と同じ速さへと近づいていった。

指先を擦り合わせると、乾いた感触がわずかに音を伴って広がる。

 

 

影が長く伸び、石の上に淡い境界を描き出す。

その境界は踏み越えるたびに形を変え、確かさを拒むように揺らいでいる。

 

 

遠くから届く気配は次第に薄れ、代わりに足元の存在だけが濃くなっていく。

一つひとつの石が静かに呼吸しているように感じられ、その上に身を預ける重さが意識される。

その重さはやがて軽さへと変わり、足取りがわずかに浮かび上がる。

 

 

最後に触れた石は、これまでよりもわずかに温もりを帯びていた。

その微かな温度が指先に残り、離れてもなお消えずに漂い続ける。

振り返らずに進みながら、その感触だけを確かめるように歩みを重ねた。

 




やがて歩みの記憶さえ薄れ、残るのは触れてきた感触の余韻だけとなる。
それらは形を持たず、ただ静かに内側を巡り続ける。


乾いた空気が頬をなぞり、わずかな冷えを残して去っていく。
その冷えが、かつて確かにそこにあった温もりを逆に浮かび上がらせる。
指先に残る微かなざらつきが、消えずに留まっている。


遠くへと続いていたはずの気配は、いつしか足もとに静かに沈んでいる。
その沈みの中で、触れてきたすべてが混ざり合い、名を持たないまま留まっていた。
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