泡沫紀行   作:みどりのかけら

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薄く積もった気配の上を歩き出すと、まだ名を持たない感触が足裏に滲んだ。
視界はひらけているのに、遠くは見えず、ただ奥行きだけが深く沈んでいる。


乾いた空気が喉をなぞり、わずかな痛みが内側に細く残った。
その感覚は不快ではなく、むしろこれから触れる何かを予感させる静けさを帯びている。
息を整えるたび、見えない層が一枚ずつ剥がれるようだった。


手のひらを開くと、何も持たない重さだけが確かにあった。
その重さは過去とも未来ともつかず、ただここにあることだけを支えている。



1091 紅葉に染まる深淵の血潮渓谷

乾いた葉が足裏でかすかに裂け、冷えた土の匂いが靴底から静かに昇ってくる。

谷へ落ちる光は深く、まだ触れていない何かの記憶を遠くから呼び寄せるようだった。

 

 

細い流れに沿って歩くと、水面に映る赤が揺れ、まるで血のように濃く見えた。

指先で水に触れると、鋭い冷たさが骨に届き、思考の奥を一瞬だけ白くした。

濡れた石は苔に覆われ、踏みしめるたびに柔らかな抵抗を返してくる。

 

 

風が谷底を撫でるたび、頭上の葉が擦れ合い、低く長い息のような音を残した。

その響きは言葉に似ているのに意味を持たず、ただ胸の内側を通り過ぎていく。

 

 

斜面を下るとき、掌に触れた岩の冷えがじわりと皮膚へ染み込んだ。

乾いた部分と湿った部分の境目が曖昧で、触れるごとに温度の差が指先を迷わせる。

足首の奥にかかる重みが、ここに立っている確かさを遅れて伝えてきた。

わずかな震えが、見えない深さを知らせるように残る。

 

 

水音は一定ではなく、細く裂ける音と、どこかで溜まり崩れる音が重なっていた。

耳を澄ますほどに境界は曖昧になり、音の層が幾重にも折り重なっていく。

 

 

落ち葉を拾うと、指に触れた瞬間に崩れ、粉のような軽さで風に散った。

その脆さは時間の重みを含んでいるのに、掌にはほとんど残らない。

残されたのはかすかな匂いだけで、指の隙間に静かに沈んでいった。

 

 

谷の奥ほど色は濃く、赤はやがて黒に近づき、光を吸い込むように沈んでいく。

視線を落とすと、自分の影さえも輪郭を失い、水と土の境に溶け込んでいた。

 

 

息を吐くと白く広がり、すぐに消えるその形が、ここではやけに長く留まる気がした。

胸の奥に残る冷えが、消えたはずの白さをまだ内側に引き止めているようだった。

 

 

水際に腰を落とすと、湿った空気が衣の奥まで入り込み、肌を静かに締めつけた。

掌を地に置くと細かな砂が絡みつき、わずかな動きでざらりと音を立てる。

その触れ方はどこか懐かしく、過去に触れた何かの断片を曖昧に浮かび上がらせた。

 

 

細い枝が流れに揺れ、折れかけた先端が水面をかすめ続けている。

その規則は崩れそうで崩れず、見ているうちに時間の感覚をゆっくりと歪めていく。

 

 

足先を水に沈めると、鋭い冷えが一瞬で膝の裏まで駆け上がった。

思わず息を止めるほどの感触が、身体の内側を透かすように巡っていく。

やがてその冷たさは痛みに似て、しかし確かな輪郭を持たずに広がった。

引き上げた足に残る水滴が、遅れて重さを知らせてくる。

 

 

高く重なった葉の隙間から、わずかな光が細い線となって落ちていた。

その線は揺れながら水面に触れ、砕けてはまた繋がる。

 

 

指で岩肌をなぞると、苔の柔らかさの奥に硬い芯が潜んでいた。

滑る感触と引っかかる感触が交互に現れ、触れているはずの場所が曖昧になる。

その曖昧さは、ここにある確かさを逆に際立たせていた。

 

 

谷の奥から、低く沈むような響きが途切れずに続いている。

それは風とも水とも判別できず、ただ深さだけを帯びて漂ってくる。

耳を傾けるほどに、その響きは内側へと入り込み、外界との境を薄くした。

 

 

歩みを進めるたび、足裏に伝わる感触がわずかに変わり続ける。

柔らかな土、湿った石、砕けた葉が交じり合い、同じ地面が存在しない。

 

 

やがて視界の奥で、赤は完全に暗がりへ溶け込み、色の区別を失っていく。

残されたのは輪郭のない深さと、その底に沈み続ける静かな気配だけだった。

 




歩みを緩めると、背後に残したはずの気配がまだ足元にまとわりついていた。
振り返らずとも、それが消えないことを身体の奥が知っている。


掌に残る冷えは、すでに触れていないはずのものの形を保っている。
その輪郭は曖昧でありながら、消えることなく静かに続いている。
やがてそれは温度を失い、ただの記憶にも似た感触へと変わっていく。


最後に吐いた息は白くならず、空気の中へ溶けていった。
そこには何も残らないはずなのに、確かな深さだけが静かに広がっている。
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