そのひとすじの空気に、言葉にできぬ懐かしさや、まだ触れたことのない景色の面影が滲んでいることがある。
何も語らぬ山々の静けさの奥に、ひとつの光が脈打つように息づいていた。
あの秋の空の下、ただ歩いた。
雲を越え、風の音を聴きながら。
夕暮れの気配が色づく頃、薄靄に煙る峠の小道をゆく。
足元の土はしっとりと湿り、霜に縁どられた落葉が、ひとつ、またひとつと沈黙のうちに崩れてゆく。
風は稜線をなぞるようにして、静かに樹々の肩を撫でていった。
高く、どこまでも遠い空の奥からは、雁の声が細く落ちてくる。
あの音は果たして記憶の裡か、それとも今、この足元に寄り添う現実か。
境目が曖昧なまま、手のひらは冷え、指先は小さく震えている。
色づく木の葉は、燃えるようでいて、声を立てずにただそこにある。
その赤、その黄、その朱のひとつひとつが、まるで記憶のかけらのように、胸の奥に触れては消えていく。
木々は言葉を持たず、しかし確かに語っている。
何を、とは問わずとも、耳を澄ませばその静けさに答えが宿る。
道の傍ら、小さな祠のような岩陰に腰を下ろす。
苔むした石がひんやりと背を冷やし、わずかに濡れた草の香りが鼻を掠める。
遠くの山々は、靄の帳を纏って姿をあいまいにしながらも、そこに在るという重みを決して失わない。
沈黙という名の重さのなかに、息をひそめるようにして光がある。
空は、雲を孕んだまま、どこかへ旅立とうとしている。
切れ間から差し込む陽は、まるで冬の知らせのように冷たく白い。
山肌を包む薄霧が、それを受けて微かに煌めくたびに、時間が静かに溶けていくのを感じる。
歩みを再び進めると、足音は次第に土から岩へ、そしてまた土へと変わる。
音は少しずつ濁りを帯び、やがて無音となる。
その変化のひとつひとつに、気づかぬうちに心が揺れていた。
谷を越え、風の道を抜ける。
眼下にひろがる樹海の海は、まるで黄昏の波が寄せるかのように揺れている。
山の稜線が重なり合い、そのひとつひとつが遠い日々の記憶のように重く、静かに沈んでいく。
高みに辿り着く頃、足元には一面の草紅葉。
まるで火のようでありながら、決して燃えぬ静謐な炎。
それを踏まずに歩くことなどできず、ひとつひとつが音もなく潰えていく。
風が強くなり、耳の奥がざわめく。
目を細めると、雲が真下に広がっていた。
波打つような白のうねりは、どこか現実とは思えず、けれど確かにそこに在る。
浮かぶような感覚に、思わず足が止まる。
立ちすくんだまま、風に身を任せる。
その雲の海を、光が斜めに射していた。
空の奥から届くその光は、時を止める力を秘めているかのようで、まばたきすら惜しまれるほどに儚い。
雲の影が、静かに流れていく。どこから来て、どこへ去るのか。
それを追うことは叶わず、ただ見つめるだけで胸が満たされていく。
ふと、遠くで何かが揺れる気配がした。
木の葉ではない。
鳥の影でもない。
それは、たとえば夢の輪郭のように、記憶のなかでぼんやりと揺れているもの。
言葉にするにはあまりにも繊細で、けれど確かに心の奥を通り抜けていった。
その気配が過ぎたあと、空はさらに静かになっていた。
風も、光も、遠くの音もすべてが、何かを迎え入れるために息をひそめている。
時の流れが、一瞬だけ、ぴたりと止まる。
ほんのわずかな沈黙。
その奥に、何かが在るような気がした。
ひとつ、深く息を吸う。
空気は冷たく澄み、肺の奥まで染み渡る。
どこかで凍てついた水が流れている音がする。
岩肌の隙間を縫い、光の届かぬ地の底で、確かに存在を刻むその流れ。
目には見えずとも、耳には聴こえずとも、確かにそこに在ると感じる何かが、この静寂には宿っている。
足元の影がゆっくりと伸び、夕暮れが地を撫でるように降りてきた。
雲の海にも朱が滲み、白銀の起伏が次第に琥珀色を帯びてゆく。
誰も踏み入れぬその遥かな大地が、火のような光を孕んで燃えていた。
燃えているのに、静かだった。
叫びも、音もないまま、すべてが溶け合っていく。
草紅葉のなかを歩く。
わずかな風に揺れる穂先が、光に触れては微かな音を立てる。
まるで、祈りにも似た調べ。
足を進めるごとに、その音は連なり、遠いどこかで聞いたことのある旋律へと変わっていった。
思い出せぬまま、その音に身を委ねる。
旋律は過去を探るように流れ、やがて今の空へと還っていった。
岩陰に、白い花がひとつだけ咲いていた。
秋という季節を忘れたかのように、凛と首を伸ばし、霜にも屈せずに。
まるでここで誰かを待ち続けているかのような気配に、目が離せない。
花は風に揺れてもなお折れず、ただそこに在り続けていた。
名を知らぬその白が、空の光を受けて、ほんのわずかに透けていた。
空を見上げると、星が一つだけ瞬いていた。
まだ空は青と金の狭間にあるのに、気の早いそのひとつが、確かに夜の訪れを告げていた。
やがて、雲の向こうに幾つもの小さな光が滲みはじめ、空は静かに深まってゆく。
星々は、言葉も音もなく、ただ黙ってそこに佇んでいた。
夜の帳が降りる頃、雲の海は黒の絹へと変わり、そのうねりさえも姿を消していった。
山の風が、冷たさを孕み、肌を突き刺す。
吐く息は白く、すぐに溶けて空へ還る。
あの白い息も、きっと風の道を越えて、どこかで誰かの夢に紛れ込むのだろう。
遠くの木立から、わずかな光が漏れていた。
光源は見えない。
ただ、そこに在る気配だけが感じられる。
その光は手招くようでいて、決して強引ではなく、ただ静かに待っていた。
導くのではない。
ただ、在る。
それだけで、理由など必要としない。
その光の方へ、歩を進める。
地面は凍り始め、草の先に細かな霜が宿る。
月の光が、霜に触れて淡く輝く。
夜の冷たさが骨の奥にまで染みるころ、心の奥に灯るものが、そっと明滅を始めた。
寒さのなかに宿るぬくもり。
音のない静けさに潜む命の鼓動。
やがて、小さな丘の上に辿り着いた。
そこには何もない。
ただ空が広がり、星々が瞬き、風が通り過ぎていく。
にもかかわらず、この場所には確かな何かがあった。
足元の草が、そっと揺れる。
光も、音も、風も、そして沈黙までもが、この場所ではすべて等しく美しかった。
腰を下ろし、夜空を見上げる。
星々が紡ぐ静寂のなかに、言葉では決して届かぬ詩があった。
それは眠れる星々の詠唱。
誰にも聞こえず、しかし誰の魂にも響くような、古く優しい旋律。
しばし、瞼を閉じる。
そこには音もなく、名もなく、ただ風と星と、ひとつの白い花があった。
沈黙のなかで揺れる草紅葉、霜に光る白い花、誰に告げるでもなく瞬く星。
目を閉じれば、あの冷たい風の手触りが、まだ掌に残っている気がする。
すべてが過ぎ去ったあとも、あの空はきっと、変わらず高みに在り続ける。
歩いて、立ち止まって、見上げて――
ただそれだけのことが、ひとつの記憶になる。