泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風の通り道に立つと、不意に過ぎた季節の気配が頬を撫でてゆくことがある。
そのひとすじの空気に、言葉にできぬ懐かしさや、まだ触れたことのない景色の面影が滲んでいることがある。

何も語らぬ山々の静けさの奥に、ひとつの光が脈打つように息づいていた。
あの秋の空の下、ただ歩いた。
雲を越え、風の音を聴きながら。


0110 雲を越えし空の旅路

夕暮れの気配が色づく頃、薄靄に煙る峠の小道をゆく。

足元の土はしっとりと湿り、霜に縁どられた落葉が、ひとつ、またひとつと沈黙のうちに崩れてゆく。

風は稜線をなぞるようにして、静かに樹々の肩を撫でていった。

高く、どこまでも遠い空の奥からは、雁の声が細く落ちてくる。

あの音は果たして記憶の裡か、それとも今、この足元に寄り添う現実か。

境目が曖昧なまま、手のひらは冷え、指先は小さく震えている。

 

色づく木の葉は、燃えるようでいて、声を立てずにただそこにある。

その赤、その黄、その朱のひとつひとつが、まるで記憶のかけらのように、胸の奥に触れては消えていく。

木々は言葉を持たず、しかし確かに語っている。

何を、とは問わずとも、耳を澄ませばその静けさに答えが宿る。

 

道の傍ら、小さな祠のような岩陰に腰を下ろす。

苔むした石がひんやりと背を冷やし、わずかに濡れた草の香りが鼻を掠める。

遠くの山々は、靄の帳を纏って姿をあいまいにしながらも、そこに在るという重みを決して失わない。

沈黙という名の重さのなかに、息をひそめるようにして光がある。

 

空は、雲を孕んだまま、どこかへ旅立とうとしている。

切れ間から差し込む陽は、まるで冬の知らせのように冷たく白い。

山肌を包む薄霧が、それを受けて微かに煌めくたびに、時間が静かに溶けていくのを感じる。

 

歩みを再び進めると、足音は次第に土から岩へ、そしてまた土へと変わる。

音は少しずつ濁りを帯び、やがて無音となる。

その変化のひとつひとつに、気づかぬうちに心が揺れていた。

 

谷を越え、風の道を抜ける。

眼下にひろがる樹海の海は、まるで黄昏の波が寄せるかのように揺れている。

山の稜線が重なり合い、そのひとつひとつが遠い日々の記憶のように重く、静かに沈んでいく。

 

高みに辿り着く頃、足元には一面の草紅葉。

まるで火のようでありながら、決して燃えぬ静謐な炎。

それを踏まずに歩くことなどできず、ひとつひとつが音もなく潰えていく。

 

風が強くなり、耳の奥がざわめく。

目を細めると、雲が真下に広がっていた。

波打つような白のうねりは、どこか現実とは思えず、けれど確かにそこに在る。

浮かぶような感覚に、思わず足が止まる。

立ちすくんだまま、風に身を任せる。

 

その雲の海を、光が斜めに射していた。

空の奥から届くその光は、時を止める力を秘めているかのようで、まばたきすら惜しまれるほどに儚い。

雲の影が、静かに流れていく。どこから来て、どこへ去るのか。

それを追うことは叶わず、ただ見つめるだけで胸が満たされていく。

 

ふと、遠くで何かが揺れる気配がした。

木の葉ではない。

鳥の影でもない。

それは、たとえば夢の輪郭のように、記憶のなかでぼんやりと揺れているもの。

言葉にするにはあまりにも繊細で、けれど確かに心の奥を通り抜けていった。

 

その気配が過ぎたあと、空はさらに静かになっていた。

風も、光も、遠くの音もすべてが、何かを迎え入れるために息をひそめている。

時の流れが、一瞬だけ、ぴたりと止まる。

ほんのわずかな沈黙。

その奥に、何かが在るような気がした。

 

ひとつ、深く息を吸う。

空気は冷たく澄み、肺の奥まで染み渡る。

どこかで凍てついた水が流れている音がする。

岩肌の隙間を縫い、光の届かぬ地の底で、確かに存在を刻むその流れ。

目には見えずとも、耳には聴こえずとも、確かにそこに在ると感じる何かが、この静寂には宿っている。

 

足元の影がゆっくりと伸び、夕暮れが地を撫でるように降りてきた。

雲の海にも朱が滲み、白銀の起伏が次第に琥珀色を帯びてゆく。

誰も踏み入れぬその遥かな大地が、火のような光を孕んで燃えていた。

燃えているのに、静かだった。

叫びも、音もないまま、すべてが溶け合っていく。

 

草紅葉のなかを歩く。

わずかな風に揺れる穂先が、光に触れては微かな音を立てる。

まるで、祈りにも似た調べ。

足を進めるごとに、その音は連なり、遠いどこかで聞いたことのある旋律へと変わっていった。

思い出せぬまま、その音に身を委ねる。

旋律は過去を探るように流れ、やがて今の空へと還っていった。

 

岩陰に、白い花がひとつだけ咲いていた。

秋という季節を忘れたかのように、凛と首を伸ばし、霜にも屈せずに。

まるでここで誰かを待ち続けているかのような気配に、目が離せない。

花は風に揺れてもなお折れず、ただそこに在り続けていた。

名を知らぬその白が、空の光を受けて、ほんのわずかに透けていた。

 

空を見上げると、星が一つだけ瞬いていた。

まだ空は青と金の狭間にあるのに、気の早いそのひとつが、確かに夜の訪れを告げていた。

やがて、雲の向こうに幾つもの小さな光が滲みはじめ、空は静かに深まってゆく。

星々は、言葉も音もなく、ただ黙ってそこに佇んでいた。

 

夜の帳が降りる頃、雲の海は黒の絹へと変わり、そのうねりさえも姿を消していった。

山の風が、冷たさを孕み、肌を突き刺す。

吐く息は白く、すぐに溶けて空へ還る。

あの白い息も、きっと風の道を越えて、どこかで誰かの夢に紛れ込むのだろう。

 

遠くの木立から、わずかな光が漏れていた。

光源は見えない。

ただ、そこに在る気配だけが感じられる。

その光は手招くようでいて、決して強引ではなく、ただ静かに待っていた。

導くのではない。

ただ、在る。

それだけで、理由など必要としない。

 

その光の方へ、歩を進める。

地面は凍り始め、草の先に細かな霜が宿る。

月の光が、霜に触れて淡く輝く。

夜の冷たさが骨の奥にまで染みるころ、心の奥に灯るものが、そっと明滅を始めた。

寒さのなかに宿るぬくもり。

音のない静けさに潜む命の鼓動。

 

やがて、小さな丘の上に辿り着いた。

そこには何もない。

ただ空が広がり、星々が瞬き、風が通り過ぎていく。

にもかかわらず、この場所には確かな何かがあった。

足元の草が、そっと揺れる。

光も、音も、風も、そして沈黙までもが、この場所ではすべて等しく美しかった。

 

腰を下ろし、夜空を見上げる。

星々が紡ぐ静寂のなかに、言葉では決して届かぬ詩があった。

それは眠れる星々の詠唱。

誰にも聞こえず、しかし誰の魂にも響くような、古く優しい旋律。

 

しばし、瞼を閉じる。

 

そこには音もなく、名もなく、ただ風と星と、ひとつの白い花があった。




沈黙のなかで揺れる草紅葉、霜に光る白い花、誰に告げるでもなく瞬く星。
目を閉じれば、あの冷たい風の手触りが、まだ掌に残っている気がする。

すべてが過ぎ去ったあとも、あの空はきっと、変わらず高みに在り続ける。
歩いて、立ち止まって、見上げて――

ただそれだけのことが、ひとつの記憶になる。
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