泡沫紀行   作:みどりのかけら

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春の訪れは、決して喧しいものではなかった。
遠くの峰にまだ雪が残る頃、静けさを破らぬように、ぬくもりだけが先にやってきた。

それは風に紛れて降りてくる。
それは湧き水のように地から滲み出る。

かつて歩いた山のふもと、湯けむりの奥にあったもの。

それは、春に抱かれたひとつの、深い記憶。


0111 神の山に抱かれし湯の宿

膝をつくほどの静けさがあった。

薄紅の風が頬を撫で、枝先をゆらりと揺らす。

雲は低く、空をかすめるように流れ、天と地のあわいには、誰のものとも知れぬ祈りが滲んでいた。

 

足元の土は湿り、踏みしめるたびに柔らかな抵抗を返してくる。

積もった落葉の下には、雪の名残が息を潜めている。

水を湛えた沢の音が遠くに聞こえる。

それはまるで、夢の底で語りかける声のように、確かでありながら、遠い。

 

胸元の衣に、ほんのりと湯の香が染み込んでいる。

香ばしく、どこか土を思わせるその香は、肌に触れた春の熱と共に、記憶の中へと沈んでゆく。

 

木立の合間から、湯気が上るのが見えた。

白く、薄く、ゆらめきながら、まるで山そのものが息をしているかのように。

 

その蒸気の奥には、翳りを含んだ古い木の屋根が見え隠れしていた。

苔むした板壁は雨に磨かれ、時の層を纏って沈黙している。

軒先からは、いく筋もの雫が滴り落ち、苔の葉を揺らしていた。

 

扉を押すと、きしむ音がひとつだけ響いた。

中は暗く、微かな灯が床に影を落としている。

湯けむりが宙を舞い、光を包み、音を溶かしてゆく。

柱に触れると、乾いた温もりが掌に伝わる。

それはまるで、誰かの記憶の中にある安らぎのようだった。

 

湯に身を沈めると、肺の奥がゆっくりとほどけてゆく。

熱すぎず、冷たくもなく、ただ静かに、すべてを許すような温度。

まぶたを閉じれば、そこにはもはや山も湯もなく、ただ流れ続ける時だけがあった。

 

春の気配は、音もなく忍び寄り、石畳の隙間に小さな緑を芽吹かせていた。

湯の音に交じり、鳥がひと声、啼いた。

遠く、雪解け水の走る音がこだまする。

その音にまぎれて、小さな唄のようなものが聞こえた気がした。

それはこの地が、いくつもの春を見送り、迎えてきた証のようだった。

 

長く降り積もった沈黙を破ることなく、山は湯を湛え、湯は山の声を映している。

人の声が失せた後にも、きっとこの湯は湧き続けるのだろう。

誰のためでもなく、ただそこにあることを選びながら。

 

扉の外では、またひとひらの花びらが風に乗っていた。

薄く、軽く、音もなく。

それがどこから舞い、どこへ帰るのか、誰にも知る由はない。

 

けれど、確かにここに、春が息をしていた。

 

湯の宿を後にすると、靴裏がしっとりと濡れた。

朝露はまだ消えず、草の刃が白銀の粒をまとっていた。

空はやや霞み、陽は雲の膜を透かしながら、淡く地を照らしていた。

すべての輪郭が柔らかくなり、世界はまるで夢の余白のように広がっていた。

 

小道を歩くうち、森が深くなる。

幹の太い樹々が密やかに立ち並び、苔の緞帳が足元に敷かれてゆく。

枝からしずくが落ちるたび、空気がゆっくりと震えた。

その響きさえも、森の深い呼吸に吸い込まれていく。

 

立ち止まると、空から名もなき音が降ってきた。

それは風か、水か、あるいは山が目覚める音だったのかもしれない。

人の手が触れられぬ場所に、確かに存在し続ける律動があった。

木々の合間から差し込む光が、濡れた地を金に変える。

一歩、また一歩、光の中に踏み込むたびに、胸の奥がほんの少しずつ澄んでいった。

 

やがて開けた場所に出ると、そこには小さな祠が佇んでいた。

石段は歪み、苔むし、誰かの足がしばらく届いていないことを語っていた。

だが、祠の屋根には新しい葉が舞い落ちていて、それは静かな供え物のようでもあった。

 

風が背を押す。

顔を上げれば、木の葉が光を受けてきらめいていた。

その間を一羽の蝶が抜けていき、時間の淀みを攪拌するように、空へと昇っていった。

 

あの湯の宿に宿っていたものは、きっと春の中でも特別な“目覚め”だった。

凍てついた季節の中で眠り続けていた何かが、春のぬくもりによってふと動き出す――

 

そんな、音にも言葉にもならぬ気配が、この山には満ちていた。

 

ふと、遠くに湯気がまた揺れているのが見えた。

それはただの幻だったのか、それとも山がまたひとつ、秘密を明かしかけていたのか。

どちらにしても、歩みを止める理由にはならなかった。

 

ふいに、足元から野の香りが立ちのぼった。

湿った土、ひっそりと咲く草の花、陽に温められた苔。

すべてが同じ旋律を持ち、この春という名の季節を奏でていた。

 

背後からは、もう宿も湯も見えなかった。

けれど、あのぬくもりは確かに皮膚の内側に染みついていた。

忘れ得ぬものとして、心の奥に灯をともしていた。

 

どこまでも歩いてゆける気がした。

それはたぶん、あの湯の宿が、心の底からほどけるということを教えてくれたからだ。

 

この山の奥で目覚めたのは、春だけではない。

眠れる星の詠み手もまた、あの湯の中で、そっと目を開けていた。

 

そして今、歩むこの道の先にも、きっとまた、名もなき春が咲いているのだろう。




山を下りた後も、肩に残る湯のぬくもりは、なかなか消えなかった。
風が変わり、空が夏へと傾いてゆくなかで、あの静けさだけは、今も胸の奥に沈んでいる。

名も知らぬ木立の間、名もなき春の気配に包まれていた、あの一日。

たとえ時が流れても、あの湯に宿ったものは、決して消えることがない。

それは今も、あの山の深く、静かに息をしている。
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