泡沫紀行   作:みどりのかけら

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陽の光がようやくやわらぎ、地に近い風が匂いを変えるころ、しずかに開く花の気配に誘われて、ある季節の奥へと歩を進めた。
遠い記憶の底で揺れていた、あたたかな幻に、ほんの少しだけ指先がふれたのかもしれない。

淡く滲む空の下、誰ともなく立ち止まったその場所で、時は言葉を持たず、ただ、咲き、散り、そしてまた咲こうとしていた。


0114 桜の風に舞う幻の城

水を打ったような静寂が、土の道を染めていた。

雲は薄く、風は白い息のように枝先を撫でる。

やわらかく濡れた苔の香りが、草の影にかすかに立ちのぼっていた。

 

道はゆるやかに、息をひそめるような傾斜を描いてのびてゆく。

どこからともなく、白い花びらが一枚、ふと、舞い降りてきた。

それを目で追ううちに、空の色が静かに移ろい始めていることに気づく。

春は、声を持たないまま、眠りに似た歩みで、ただ奥へと進んでいる。

 

枝々に灯るように咲いた花が、空を覆い、陽をやわらげ、時間の輪郭をぼかしていた。

ひとつひとつの花弁が、光を包んで揺れていた。

その白と淡紅の織りなす模様は、かつて見た夢の襞のようでもあり、

触れれば指先が消えてしまいそうな、そんな輪郭だった。

 

ひそやかに水をたたえた濠が現れた。

その表面は、花の影を幾重にも重ねていた。

水の底から湧き上がるように、あたたかな風が吹き抜ける。

目を閉じれば、あたり一面の静けさが、ひとつの音楽のように聴こえてくる。

 

石を重ねて築かれた古い壁が、時の向こうから立っていた。

苔が、風雨の記憶を覆い隠すように張りついている。

そのすき間から、小さな草花がのびていた。

足元の土が、すこしだけ春の湿りを含んでやわらかかった。

 

鳥の羽音が、そっと空を横切る。

目をやれば、見上げるほどの桜の樹が、枝いっぱいに花を咲かせていた。

それはまるで、天から吊り下げられた無数の灯火のようで、その下を通るたび、頬にふれる花びらが、時の輪郭を撫でていった。

 

遠くで、風が一度だけ、濃く吹いた。

花の嵐が、静けさの中に舞い上がる。

それは一瞬、現し世がほどけて、別の季節へと繋がる裂け目のようだった。

言葉にならない何かが、喉の奥に溜まっていく。

 

風が止み、また音のない時間が戻る。

広がる平地に、淡く霞んだ木々が見える。

その奥、薄桃色の霧の向こうに、塔のようなものがかすかに立っていた。

けれど目を凝らせば凝らすほど、それは煙のように形を変えてゆく。

 

足元に咲く花に、そっと目を落とす。

名も知らぬ小さな草花が、冷たい石の隙間から、まっすぐ空を見つめていた。

指先でふれれば、花びらが震え、その芯に宿る命の微熱がわかる。

掌に残る感触は、ごくわずかな温もりと、土の匂いだった。

 

あたりには誰の気配もない。

けれど、どこか遠くの時を歩いた人々の、歩幅の跡のようなものが、

風の向こうにまだ、たしかに残っているような気がする。

 

やがて道は、わずかにせり上がる丘のような場所へと導いた。

踏みしめた地面が、乾いた草の音を立てる。

光が斜めに差し込み、桜の影が長く伸びている。

その影が重なり、まるで花そのものが地に咲いたように見えた。

 

陽のぬくもりが肩を包み、ひとつ、深く息を吐いた。

空気は甘く、微かに水のにおいが混じっていた。

聞き覚えのない鳥の声が、風のすき間から降ってくる。

その声をたどるように歩を進めると、ひときわ高く、静けさに包まれた場所に出た。

 

そこには、誰もいなかった。

けれど、そこに在るものすべてが、長い時をかけて誰かを待っていたようだった。

積み上げられた石が、苔の衣をまといながら、どこか誇り高く、しかし優しく佇んでいた。

残された形は朧で、輪郭はすでに風のものとなっていたが、その中心には確かに「場」があった。

 

花びらが降る。

ただの風ではない、何かを運んでくるような、遥かの気配を含んだ風だった。

目の前に浮かび上がるような、かすかな輪郭の幻。

高くそびえ、空を裂くように立っていたものの残像が、心の奥に、音もなく染み込んでいく。

 

足元の石段を一歩ずつ登るたび、足裏から過去の温度が沁みてくるようだった。

ただの石ではない。

それぞれが、長く深い記憶を抱いて眠っていた。

手を添えた石の表面は、想像よりもあたたかく、それがなぜか、ひどく胸に響いた。

 

何も語られずとも、風の流れ、光の滲み、花びらの落ちる音、それだけで、すべては足りていた。

遠い誰かが生き、去っていった気配が、あたり一面に満ちていた。

 

花びらがひとひら、頬に触れてはらりと落ちる。

その瞬間、時間がふいに歪んだ。

心の奥にひとすじの懐かしさが灯り、それが何に由来するものなのかもわからぬまま、ただ、胸が熱くなる。

 

ふと振り返れば、眼下に広がる景色があった。

水を抱く曲線の流れ、木々の波、桜の霞、そしてそれらすべてを染める、淡くやさしい春の光。

それはまるで、夢と現のはざまに浮かぶ、言葉を持たぬ絵のようだった。

 

その中心に、確かに幻のような「城」があった。

かたちはあいまいで、光に溶け、風に解けていたが、そこに何かがあったことだけは、確かにわかる。

見るほどに、心が静まってゆく。

まるで、それがそこにあることだけで、満ち足りてゆくように。

 

長い時を旅してきたものたちが、すべてここに辿り着いて、静かに眠っている気がした。

声なき声が、耳元にふれる。

それは言葉ではなかったが、胸の奥のやわらかい場所がわずかに震えた。

 

あたりが、ゆっくりと色を変えてゆく。

西の空が、ほのかに朱を帯びはじめていた。

花びらはまだ降り続け、風はやさしくその道を描いていた。

 

遠ざかる足音は、振り返ることなく、ただ光の中へと、溶けていくように消えていった。




風がやみ、影が伸びる。
地に落ちた花びらのひとつひとつに、名もなき時の欠片が宿っていた。

その光も、その静けさも、もうここにはないのかもしれない。
けれど、まぶたの裏にのこる輪郭は、音もなく、呼吸のように、今も胸の奥をめぐっている。

すべては、過ぎ去るように見えて、どこかでまだ咲き続けている。
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