ひとたび風が唸れば、そこは時間も言葉も奪われる場所となり、歩みのひとつひとつが、名もなき祈りとなって雪に沈む。
誰もがひとつの試練を通り抜け、誰にも知られずに灯を抱えて生きてゆく。
これは、ある白の季節に触れたとき、その沈黙の中で確かに聴こえた、ひとつの鼓動の記憶。
指の先が、雪に吸い込まれていく。
それは柔らかくも冷たく、皮膚の奥で静かに痛みを育てる。
風が走るたび、世界がかすれる。
音を連れてゆく風ではない。音を削る風だ。
空と地の境は消え、白は全てを飲み干しながら揺れていた。
足元に刻まれるはずの足跡すら、後ろを振り向けばもう見えなかった。
歩くというより、押し進む。
目の前の一歩を信じるしかなかった。
雪はただ積もるのではない。
生きているものを沈めるように積もっていく。
ひとつ、またひとつ、足は雪に沈み、抜け出すたびに全身がわずかに軋んだ。
冷えた布が太腿に張りつく。手袋の中で指はもどかしく動き、感覚の薄れに抗っている。
木々の影は、黒ではなく灰。
葉を落とした梢が白の帳のなかでぼんやりと形を主張していた。
雪の重みに軋む音さえ、やがて風に溶けた。
ときおり、風は息を潜める。
その刹那、静けさは異様なほど濃くなる。
呼吸の音が耳に残り、胸の奥の鼓動がかすかに響く。
目を閉じれば、まるで雪そのものになったような気がした。
──白のなかに沈む、という感覚。
地吹雪は、方向を奪う。
記憶の道筋は曖昧に溶け、見知ったはずの曲がり角も、枝ぶりも、すべてが異形となって再び現れる。
同じ場所を何度も歩いているのではないかと、ふとした拍子にそんな錯覚が胸をよぎる。
風が再び目を開け、吹き荒れる。
雪が顔を削る。目を伏せても、まぶたの裏まで焼けるように白い。
布の隙間から忍び込んだ冷気が首筋を這い、背骨に沿って刺さるような痛みを残していく。
それでも足は止めない。
いや、止められないのかもしれない。
止まれば、音のない白のなかで、自分が音を失ってゆく気がする。
足元に、朽ちた柵が現れた。
低く、無骨な形。雪に埋もれながら、僅かにその稜線を主張している。
金属ではない。乾ききった木肌が、雪を吸いながら耐えていた。
人の手の痕跡。だが、あまりにも古い。
誰かの営みが、吹き荒れる季節に敗れ、忘れ去られたのだ。
手をかける。
冷たい。冷たいなどという言葉では足りない。
指先から心臓にまで、柵の冷たさが届くようだった。
風が一際強く唸った。
遠くで何かが倒れる音がした。
音はすぐに風にかき消された。
膝まで埋まった雪を抜け、柵を越える。
そこには、わずかな傾斜があった。
崩れかけた石の列。踏み石だったのかもしれない。
けれど、雪がすべてを覆い尽くし、何が意図されていたのかはもうわからなかった。
その一歩ごとに、身体の芯が冷えていくのを感じる。
けれど同時に、どこか深くで灯るものもあった。
白に沈みながらも、なお灯りを失わないもの。
あまりに、静かだった。
風の切れ間に聞こえたのは、ひとしずくの水音だった。
氷を割るような、かすかな音。
凍てつく地にもなお、しずくは命を忘れてはいなかった。
足をとめ、耳を澄ます。
音は、またひとつ。
そして、消えた。
その場所にわずかな窪みがあり、風が巻ききらぬほどの小さな谷間が、そこにはあった。
枝の折れた灌木と、うずたかく積もった雪とに守られた、白の底にぽつんと開いた、静かな窪地。
そこに佇むと、世界が少し遠のく。
音も、風も、時さえも。
ふいに、深く息を吐く。
その白い息が、目の前で凍りつくような気がした。
呼吸がかすれるたび、胸の奥に触れる何かがある。
それは寒さではなく、もっと古く、柔らかく、けれど抗いようのないもの。
地に手をつけると、雪の冷たさが掌に染み入った。
その奥に眠る石が、まだ生きていることを告げている。
土の記憶を、その沈黙のままに湛えていた。
ふと、視界に黒が差す。
大きな鳥が一羽、雪原を渡ってゆく。
風に逆らうでも、沿うでもなく、ただ静かに羽ばたいていく。
あの羽音には、重さがなかった。
少しずつ空が明るみ始めていた。
白の色が、微かに変わってゆく。
灰とも銀ともつかぬ、夜明けと呼ぶにはあまりに鈍く冷たい、
けれど確かな光の気配。
風は、静まりつつある。
まだ完全に止んだわけではない。
けれど、たしかに今、白の向こうに輪郭が戻りつつある。
前方に、幾本かの木立が見えた。
まるで呼吸を整えているかのように、風に身を揺らし、けれど根は雪の奥深くに、確かに降ろされている。
そこを越えた先に、何があるのかはわからない。
けれど、一歩、また一歩と進めば、雪は裂け、道はかすかに形を取り戻す。
手の感覚は、ほとんど残っていなかった。
だが、胸の奥には、まだ灯がある。
白は、全てを試す。
進む者の足を奪い、記憶を揺らし、心の奥の奥に潜む、名もない震えを曝け出す。
それでも歩くのは、その白の先に、まだ見ぬ色を信じているからだ。
木立の隙間から、わずかに陽が差した。
雪の粒が、光を受けて煌めく。
まるで空から零れ落ちた星々のように。
ただ一瞬、世界は息を飲んだ。
そしてまた、歩き出す。
沈黙のなかで、心の奥にあった言葉が、雪に触れるように、そっと芽吹いていた。
白の中を歩いていると、ときおりすべての境界がほどける。
寒さと痛みと静けさとが溶け合い、ただひとつの深い感覚として身体に残る。
そのときに、ふと、わかることがある。
光はいつも、音のない場所に差すのだと。
風に試され、雪に沈み、それでも灯を失わなかったすべての歩みに、
言葉にならない敬意を込めて。