泡沫紀行   作:みどりのかけら

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静かに降り積もる白は、すべてを隠し、すべてを映す。
ひとたび風が唸れば、そこは時間も言葉も奪われる場所となり、歩みのひとつひとつが、名もなき祈りとなって雪に沈む。

誰もがひとつの試練を通り抜け、誰にも知られずに灯を抱えて生きてゆく。

これは、ある白の季節に触れたとき、その沈黙の中で確かに聴こえた、ひとつの鼓動の記憶。


0115 白き嵐と対峙する勇者の試練

指の先が、雪に吸い込まれていく。

それは柔らかくも冷たく、皮膚の奥で静かに痛みを育てる。

 

風が走るたび、世界がかすれる。

音を連れてゆく風ではない。音を削る風だ。

空と地の境は消え、白は全てを飲み干しながら揺れていた。

 

足元に刻まれるはずの足跡すら、後ろを振り向けばもう見えなかった。

歩くというより、押し進む。

目の前の一歩を信じるしかなかった。

 

雪はただ積もるのではない。

生きているものを沈めるように積もっていく。

ひとつ、またひとつ、足は雪に沈み、抜け出すたびに全身がわずかに軋んだ。

冷えた布が太腿に張りつく。手袋の中で指はもどかしく動き、感覚の薄れに抗っている。

 

木々の影は、黒ではなく灰。

葉を落とした梢が白の帳のなかでぼんやりと形を主張していた。

雪の重みに軋む音さえ、やがて風に溶けた。

 

ときおり、風は息を潜める。

その刹那、静けさは異様なほど濃くなる。

呼吸の音が耳に残り、胸の奥の鼓動がかすかに響く。

目を閉じれば、まるで雪そのものになったような気がした。

 

──白のなかに沈む、という感覚。

 

地吹雪は、方向を奪う。

記憶の道筋は曖昧に溶け、見知ったはずの曲がり角も、枝ぶりも、すべてが異形となって再び現れる。

同じ場所を何度も歩いているのではないかと、ふとした拍子にそんな錯覚が胸をよぎる。

 

風が再び目を開け、吹き荒れる。

雪が顔を削る。目を伏せても、まぶたの裏まで焼けるように白い。

布の隙間から忍び込んだ冷気が首筋を這い、背骨に沿って刺さるような痛みを残していく。

 

それでも足は止めない。

いや、止められないのかもしれない。

 

止まれば、音のない白のなかで、自分が音を失ってゆく気がする。

 

足元に、朽ちた柵が現れた。

低く、無骨な形。雪に埋もれながら、僅かにその稜線を主張している。

金属ではない。乾ききった木肌が、雪を吸いながら耐えていた。

人の手の痕跡。だが、あまりにも古い。

誰かの営みが、吹き荒れる季節に敗れ、忘れ去られたのだ。

 

手をかける。

冷たい。冷たいなどという言葉では足りない。

指先から心臓にまで、柵の冷たさが届くようだった。

 

風が一際強く唸った。

遠くで何かが倒れる音がした。

 

音はすぐに風にかき消された。

 

膝まで埋まった雪を抜け、柵を越える。

そこには、わずかな傾斜があった。

崩れかけた石の列。踏み石だったのかもしれない。

けれど、雪がすべてを覆い尽くし、何が意図されていたのかはもうわからなかった。

 

その一歩ごとに、身体の芯が冷えていくのを感じる。

けれど同時に、どこか深くで灯るものもあった。

白に沈みながらも、なお灯りを失わないもの。

 

あまりに、静かだった。

 

風の切れ間に聞こえたのは、ひとしずくの水音だった。

 

氷を割るような、かすかな音。

凍てつく地にもなお、しずくは命を忘れてはいなかった。

 

足をとめ、耳を澄ます。

音は、またひとつ。

そして、消えた。

 

その場所にわずかな窪みがあり、風が巻ききらぬほどの小さな谷間が、そこにはあった。

枝の折れた灌木と、うずたかく積もった雪とに守られた、白の底にぽつんと開いた、静かな窪地。

 

そこに佇むと、世界が少し遠のく。

音も、風も、時さえも。

 

ふいに、深く息を吐く。

その白い息が、目の前で凍りつくような気がした。

呼吸がかすれるたび、胸の奥に触れる何かがある。

それは寒さではなく、もっと古く、柔らかく、けれど抗いようのないもの。

 

地に手をつけると、雪の冷たさが掌に染み入った。

その奥に眠る石が、まだ生きていることを告げている。

土の記憶を、その沈黙のままに湛えていた。

 

ふと、視界に黒が差す。

大きな鳥が一羽、雪原を渡ってゆく。

風に逆らうでも、沿うでもなく、ただ静かに羽ばたいていく。

あの羽音には、重さがなかった。

 

少しずつ空が明るみ始めていた。

白の色が、微かに変わってゆく。

灰とも銀ともつかぬ、夜明けと呼ぶにはあまりに鈍く冷たい、

けれど確かな光の気配。

 

風は、静まりつつある。

 

まだ完全に止んだわけではない。

けれど、たしかに今、白の向こうに輪郭が戻りつつある。

 

前方に、幾本かの木立が見えた。

まるで呼吸を整えているかのように、風に身を揺らし、けれど根は雪の奥深くに、確かに降ろされている。

 

そこを越えた先に、何があるのかはわからない。

けれど、一歩、また一歩と進めば、雪は裂け、道はかすかに形を取り戻す。

 

手の感覚は、ほとんど残っていなかった。

だが、胸の奥には、まだ灯がある。

 

白は、全てを試す。

進む者の足を奪い、記憶を揺らし、心の奥の奥に潜む、名もない震えを曝け出す。

 

それでも歩くのは、その白の先に、まだ見ぬ色を信じているからだ。

 

木立の隙間から、わずかに陽が差した。

雪の粒が、光を受けて煌めく。

まるで空から零れ落ちた星々のように。

 

ただ一瞬、世界は息を飲んだ。

 

そしてまた、歩き出す。

 

沈黙のなかで、心の奥にあった言葉が、雪に触れるように、そっと芽吹いていた。




白の中を歩いていると、ときおりすべての境界がほどける。
寒さと痛みと静けさとが溶け合い、ただひとつの深い感覚として身体に残る。

そのときに、ふと、わかることがある。
光はいつも、音のない場所に差すのだと。

風に試され、雪に沈み、それでも灯を失わなかったすべての歩みに、
言葉にならない敬意を込めて。
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