足裏に触れる冷えが、歩み出す前の静かなためらいを残していた。
薄い風が頬をかすめ、名を持たぬ気配だけが先に進んでいく。
その後を追うように、身体がゆっくりと動き始める。
見えない境が、どこかでほどけている気がした。
掌を開くと、何もないはずの空にわずかな重みを感じる。
触れたとも触れていないとも言えぬ曖昧さが、指先に残る。
淡い霞が低くたれこめ、土の匂いが柔らかく喉に触れる。
足裏に残る冷えが、まだ冬の名残を抱えたまま離れない。
見えない境がほどけるように、視界の端で光が揺れていた。
崩れた石の縁に指を置くと、ざらつきが掌に細かな震えを伝える。
乾いた表面の奥に、湿りを含んだ記憶が潜んでいる気がした。
花びらが一枚、肩に落ちて、軽さだけを残して消える。
その触れ方は羽よりも曖昧で、触れられた確信さえ遅れて訪れる。
風は静かに巡り、同じ場所を何度も撫でている。
緩やかな坂を踏みしめるたび、靴底に土が柔らかく吸いつく。
わずかな沈み込みが、身体の奥に小さな波を起こしていく。
かつての輪郭を失った空間に、薄い影だけが重なり続ける。
視線を落とすと、影は自分のものか定かでなくなっていた。
境界の曖昧さが、足元からじわりと広がる。
指先に触れた空気が冷たく、次の瞬間にはぬるくほどける。
温度の揺らぎが、どこか遠い記憶の欠片を撫でていく。
耳の奥で、かすかなざわめきが途切れず続いている。
それは風とも葉擦れとも違い、名を持たぬまま響いていた。
気配だけが残り、音は形を結ばない。
掌を地に近づけると、微かな湿りが皮膚に吸い寄せられる。
土の粒が指にまとわりつき、離れることをためらう。
その粘りが、時間の層を静かに繋ぎ止めているようだった。
花の影が重なり合い、淡い闇がゆっくりと揺れている。
光と影の境がほどけ、どちらにも属さぬ色が広がる。
足を止めると、沈んでいた感覚がゆっくりと浮かび上がる。
踵に残る重みが、歩いてきた道の確かさを静かに告げる。
薄く重なった花びらが、地表に柔らかな層をつくっている。
踏み込むたびにかすかな音が生まれ、すぐに消えていく。
その儚さが、足取りをわずかに躊躇わせる。
指先で空をなぞると、そこには何もないはずなのに抵抗がある。
見えぬ膜のようなものが、行き場を変えるように揺れていた。
乾いた枝に触れると、微かなひびが掌に伝わる。
折れずに残るその硬さが、時間の長さを物語るようだった。
触れた瞬間だけ、過去と現在が交差する。
風が一度強く抜け、花の香りが濃く押し寄せる。
鼻腔に満ちる甘さが、輪郭を持たぬまま広がっていく。
影が足元から離れ、わずかに遅れてついてくる。
そのずれが、身体の位置を曖昧にする。
自分の輪郭が、薄くほどけていくのを感じる。
地面に耳を近づけると、奥で何かが脈打っている。
それは音というよりも、振動に近い確かな存在だった。
立ち上がると、視界の端で光が揺らぎ続けている。
それは消えず、ただ形を変えながら留まり続ける。
歩みを再び進めると、その揺らぎは背後へと溶けていった。
歩みを止めたあとも、足裏には柔らかな沈みが残っている。
そこにあったはずの層が、まだ消えずに続いている気がする。
振り返らずとも、背後で光が静かに揺れているのがわかる。
その揺らぎは遠ざかるのではなく、内側へと沈んでいく。
境は閉じず、ただ形を変え続けている。
指先に残るざらつきが、時間の欠片のように離れない。
触れたものはすでに見えず、それでも確かにそこにある。