泡沫紀行   作:みどりのかけら

1154 / 1197
まだ輪郭を持たぬ光が、遠くでかすかに揺れている。
足裏に触れる冷えが、歩み出す前の静かなためらいを残していた。


薄い風が頬をかすめ、名を持たぬ気配だけが先に進んでいく。
その後を追うように、身体がゆっくりと動き始める。
見えない境が、どこかでほどけている気がした。


掌を開くと、何もないはずの空にわずかな重みを感じる。
触れたとも触れていないとも言えぬ曖昧さが、指先に残る。



1154 桜影に揺れる古城の囁き

淡い霞が低くたれこめ、土の匂いが柔らかく喉に触れる。

足裏に残る冷えが、まだ冬の名残を抱えたまま離れない。

見えない境がほどけるように、視界の端で光が揺れていた。

 

 

崩れた石の縁に指を置くと、ざらつきが掌に細かな震えを伝える。

乾いた表面の奥に、湿りを含んだ記憶が潜んでいる気がした。

 

 

花びらが一枚、肩に落ちて、軽さだけを残して消える。

その触れ方は羽よりも曖昧で、触れられた確信さえ遅れて訪れる。

風は静かに巡り、同じ場所を何度も撫でている。

 

 

緩やかな坂を踏みしめるたび、靴底に土が柔らかく吸いつく。

わずかな沈み込みが、身体の奥に小さな波を起こしていく。

 

 

かつての輪郭を失った空間に、薄い影だけが重なり続ける。

視線を落とすと、影は自分のものか定かでなくなっていた。

境界の曖昧さが、足元からじわりと広がる。

 

 

指先に触れた空気が冷たく、次の瞬間にはぬるくほどける。

温度の揺らぎが、どこか遠い記憶の欠片を撫でていく。

 

 

耳の奥で、かすかなざわめきが途切れず続いている。

それは風とも葉擦れとも違い、名を持たぬまま響いていた。

気配だけが残り、音は形を結ばない。

 

 

掌を地に近づけると、微かな湿りが皮膚に吸い寄せられる。

土の粒が指にまとわりつき、離れることをためらう。

その粘りが、時間の層を静かに繋ぎ止めているようだった。

 

 

花の影が重なり合い、淡い闇がゆっくりと揺れている。

光と影の境がほどけ、どちらにも属さぬ色が広がる。

 

 

足を止めると、沈んでいた感覚がゆっくりと浮かび上がる。

踵に残る重みが、歩いてきた道の確かさを静かに告げる。

 

 

薄く重なった花びらが、地表に柔らかな層をつくっている。

踏み込むたびにかすかな音が生まれ、すぐに消えていく。

その儚さが、足取りをわずかに躊躇わせる。

 

 

指先で空をなぞると、そこには何もないはずなのに抵抗がある。

見えぬ膜のようなものが、行き場を変えるように揺れていた。

 

 

乾いた枝に触れると、微かなひびが掌に伝わる。

折れずに残るその硬さが、時間の長さを物語るようだった。

触れた瞬間だけ、過去と現在が交差する。

 

 

風が一度強く抜け、花の香りが濃く押し寄せる。

鼻腔に満ちる甘さが、輪郭を持たぬまま広がっていく。

 

 

影が足元から離れ、わずかに遅れてついてくる。

そのずれが、身体の位置を曖昧にする。

自分の輪郭が、薄くほどけていくのを感じる。

 

 

地面に耳を近づけると、奥で何かが脈打っている。

それは音というよりも、振動に近い確かな存在だった。

 

 

立ち上がると、視界の端で光が揺らぎ続けている。

それは消えず、ただ形を変えながら留まり続ける。

歩みを再び進めると、その揺らぎは背後へと溶けていった。

 




歩みを止めたあとも、足裏には柔らかな沈みが残っている。
そこにあったはずの層が、まだ消えずに続いている気がする。


振り返らずとも、背後で光が静かに揺れているのがわかる。
その揺らぎは遠ざかるのではなく、内側へと沈んでいく。
境は閉じず、ただ形を変え続けている。


指先に残るざらつきが、時間の欠片のように離れない。
触れたものはすでに見えず、それでも確かにそこにある。
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