泡沫紀行   作:みどりのかけら

1156 / 1197
霧が低く垂れ込め、世界の輪郭が静かに溶けていく。
足元の湿りが、まだ見ぬものの気配を呼び寄せるように感じられた。


風がわずかに震え、遠い水の声を運んでくる。
触れたものすべてが冷たく重く、手のひらに過去の温度を宿していた。


薄明の中で、歩みはただ沈黙に沿って続く。
見えない道が、曖昧な輪郭を保ちながら誘っていた。



1156 川辺を渡る幽霊舟の伝説

川の気配は、遠くでほどけた糸のように、湿った空気の奥から静かに漂ってきた。

歩みを進めるたび、足裏に伝わる土の柔らかさが、見えない境をなぞるように変わっていく。

 

 

葦の擦れる音が耳の奥でささやき、風は水を含んだ重さで頬に触れた。

指先に触れた草の葉は、冷えた刃のようにしなり、微かな水気を残す。

その感触だけが、ここが確かに流れのそばであることを教えていた。

 

 

川面は見えないまま、気配だけが揺れている。

踏みしめた地面の下で、鈍い湿りがじわりと広がり、靴底にまとわりつく。

 

 

細い道の先に、渡るための気配だけが置かれていた。

形を持たないそれは、ただ岸と岸のあいだに、淡く横たわる空白として感じられる。

その空白に近づくほど、胸の内側が静かに沈んでいく。

 

 

足元の砂は粒が粗く、踏むたびに小さく崩れて音を立てた。

指で拾い上げれば、乾いた粒と湿った粒が混じり合い、掌に不均一な重みを残す。

 

 

流れの上を、影のようなものがゆっくりと横切った。

水音は変わらぬのに、何かが確かに通り過ぎた気配だけが残る。

その後に残る冷えが、皮膚の奥へと静かに沈み込んだ。

 

 

見えない舟が、ただ往復しているという古い感触だけがここにはある。

近づけば遠のき、遠ざかれば寄ってくるその曖昧さが、足取りを迷わせる。

 

 

岸辺に腰を下ろすと、湿りを帯びた冷たさが衣を通して骨に届いた。

水の匂いは土と混ざり、舌の奥にまでわずかな苦みを残す。

目を閉じれば、渡るものと留まるものの境が、ゆるやかにほどけていくようだった。

 

 

水の上に浮かぶものは、形を持たぬまま確かに重さを宿していた。

それが通るたび、空気はわずかに押し分けられ、頬に触れる風の向きが変わる。

 

 

足を踏み出せば、その見えない縁に触れた気がした。

硬くも柔らかくもない感触が、靴底を通して曖昧に伝わる。

その曖昧さに身を預けるほど、呼吸は浅くなっていった。

 

 

流れの音は途切れることなく続いている。

それなのに、どこかで別の時間が重なり、微かなずれを生んでいた。

 

 

腕に触れる空気が急に冷え、指先の感覚が鈍くなる。

見えないものがすぐそばを過ぎたのだと、肌だけが知っている。

その余韻が、遅れて心の奥に沈んでいく。

 

 

砂の上に残るはずの足跡が、振り返るたびに薄れていた。

風でも水でもない何かが、静かに形を均していく。

 

 

渡るという行為は、歩みではなく、委ねることに近い。

抗わずに重さを預けると、身体はゆっくりと運ばれていく気配に包まれる。

その最中、どこに立っているのかという感覚が曖昧になる。

 

 

耳の奥で、水とは異なる低い響きがかすかに揺れた。

それは遠い昔の名残のように、途切れそうで途切れない。

 

 

やがて足裏に感じる硬さが戻り、湿りは次第に遠のいていく。

土の匂いも乾きはじめ、風は軽さを取り戻していった。

それでも背後には、まだ渡りきらぬ気配が残っている。

 

 

振り返らずに歩き出すと、先ほどまでの冷えがゆっくりとほどけていく。

衣に残ったわずかな湿りだけが、あの曖昧な境を確かに伝えていた。

 




遠ざかる湿りの残滓が、衣の隙間にわずかに残っていた。
身体に染みついた川の冷えは、記憶としてゆっくりと溶けていく。


空気は乾き、風は軽やかに戻った。
それでも背後には、通り過ぎた影の名残が柔らかく揺れている。


歩き続ける足取りは、再び地面の硬さに触れながら、
渡ることと留まることの境が、心の奥で静かにほどける感覚を残した。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。