泡沫紀行   作:みどりのかけら

116 / 1179
光がすべてを染め変える季節がある。
空は高く、風は澄み、肌に触れるすべてが懐かしい。
歩き続けるうちに、いつしか時間の輪郭がゆるみ、過去も未来も、ただ一つの風景の中に溶けていく。

名もなき湯けむりの岸辺で、夕陽と永遠が、静かに交わった。


0116 夕陽と永遠が交わる秘湯

指の先で、風がほどけた。

あたたかさと冷たさの狭間をたゆたうような、秋の風だった。葉はまだ枝を離れきれず、色づく途中の金と朱が、光の粒となって空へ舞っていた。

 

地面には岩が多く、土はかすかに湿っていた。靴の裏が押しつけるたび、かすかな音が立った。草の根にしみ込んだ水気が、足裏を通じてゆっくりと体へ伝ってゆく。

 

木々の隙間から、光が差していた。

まるで空に溶けた火のしずくが、地上へと降りてくるように。光は輪郭を持たず、ただその場を満たすだけで、何ひとつ変えようとしない。

 

遠くで海の匂いがした。潮が乾きかけた石に残す、わずかな塩の記憶。

その匂いに導かれるように、歩みは自然と下り坂を選んでいた。

 

崖の縁に立つと、世界がすべて、ひとつの色で満たされていた。

それは金に似ていたが、ただの金ではなかった。

夕陽が海を焦がす寸前の、静かな金。

音も言葉も届かない、時間だけがゆっくりとほどけていく場所だった。

 

波は、触れたものすべての境界を溶かしていく。

岩も、空も、自分自身さえも。

呼吸は浅くなり、風と一体になったようだった。

見下ろす崖の底に、黒曜石のような岩の間に湯が湛えられているのが見えた。蒸気がかすかに揺れている。

 

足場は不安定で、靴が何度も岩に擦れた。

苔むした場所は滑り、膝をつくたびに、湿った石の感触が衣に染みこんできた。

けれど、痛みも冷たさも、やがて熱へと変わる。

 

湯の縁に腰を下ろしたとき、世界はすでに沈みかけていた。

海と空の境界は曖昧で、空気は透明になり、視線がそのまま永遠へ滑り込んでいきそうだった。

 

湯は、肌に触れるというよりも、記憶を撫でていくようだった。

何かが解けていく。

ずっと昔、名前を呼ばれたときのような、胸の奥に灯る静かなひかりがあった。

 

岩壁に背を預け、目を閉じる。

音が消える。風も、波も、遠くなる。

 

ただ、ひとつの鼓動だけが、深い水の底から聴こえてくる。

 

やがて、まぶたの裏に色が差し込んだ。

朱と金と、そして紫の名残。

 

まるで世界の全てが、自分の内側から生まれてきたかのようだった。

 

湯の中に沈めた手のひらが、光に透けて揺れた。

肌の上に残るあたたかさは、時間の記憶を纏っていた。

それはどこか懐かしく、けれど、いつ触れたものかは思い出せなかった。

 

水面に映る空はすでに群青に染まり、星が一粒、ゆっくりと湯に落ちた。

いや、星ではない。ただ光だった。

だがその光は、確かに胸を打った。

名前のないなにかが、そっと心にふれた。

 

背後の岩からしみ出す湯が、一定のリズムで肩を撫でていた。

そのやさしいぬくもりは、呼吸の奥にある波を整えてくれる。

身体の輪郭が、少しずつあいまいになっていく。

人ではなく、ひとつの風景に戻っていくような感覚だった。

 

ふいに、風が変わった。

高く澄んだ空気の層をすり抜けて、山の匂いが戻ってくる。

落ち葉の下で眠る土の香りが、鼻の奥をくすぐった。

 

立ち上がると、湯の膜が一瞬、夜の空気とせめぎ合い、背を包んだ。

月はまだ出ていない。

だが、闇はやわらかく、目に映るものすべてを包み込んでいた。

 

衣をまとい、足を濡らしながら岩を登る。

かすかな苔の感触が足裏に残った。

踏みしめるたびに、過去から未来までがこの一歩に集まってくるようで、次の一歩がひどく重くも、愛おしくもあった。

 

再び崖の上に立つと、海はまるで墨を落としたように深く、静かに広がっていた。

遠くで波が砕ける音が、耳の奥にゆっくりと届いた。

その音は、夜に差し込む記憶のようで、立ち去りがたく足が止まった。

 

どれだけ見つめていても、海はその本当の姿を見せてはくれなかった。

ただ、そこにあるということだけが確かだった。

この先の道がどこへ続こうとも、あの湯のぬくもりは、きっと消えない。

 

歩き出す。

 

冷えた風が頬を撫でた。

だが、心の奥ではまだ、湯の熱が静かに灯っていた。

 

遠くの空に、星がひとつ、ふたつと、ほころぶように咲いていった。

足元の影が揺れながら伸びて、道をなぞった。

 

目を閉じれば、そこにまだ、あの金の海が、揺れている気がした。




湯のぬくもりは肌を離れても、心の奥には灯のように残っていた。
あのとき見上げた空、沈みかけた光、波にほどけていった記憶。
それらはすべて、音もなく確かに、生きていた。

この旅の記憶もまた、どこかで誰かの内に、ひっそりと、やさしく、揺れているかもしれない。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。