泡沫紀行   作:みどりのかけら

1162 / 1196
淡い湿りがまだ形を持たぬころ、足元には静かな揺らぎだけが広がっていた。
その揺らぎは境を持たず、ただ内と外を同じ濃さで満たしている。


指先に触れる空気は柔らかく、わずかな温度差だけが存在を示している。
それは確かなものではなく、触れた瞬間にほどけていく気配である。
歩み出す前から、すでに帰る場所は曖昧になっている。


遠くとも近くとも言えぬ気配が、視界の奥でゆっくりと呼吸している。
その律動は耳に届かず、ただ身体の奥で微かに共鳴する。



1162 波間に眠る潮の迷宮

湿りを帯びた風が、足裏の砂をやわらかく押し返し、見えない境を撫でてゆく。

潮の匂いは淡く広がり、遠い記憶の底をゆっくりとかき混ぜる。

 

 

歩みを進めるたびに、足首へまとわりつく冷えが、遅れて波のように寄せてくる。

乾ききらぬ空気が袖にまとわり、重さを帯びた布の感触が静かに揺れる。

目に映るものは揺らぎ、境界の輪郭だけがかすかに滲んでいる。

 

 

薄く広がる水の膜が、地と空のあいだを曖昧に繋いでいる。

踏みしめるたびに、小さな音が砕け、耳の奥で遅れてほどける。

 

 

指先に触れた石は冷たく、長く眠っていた気配を残している。

その硬さは、時間の重なりを無言で伝え、掌に沈む。

わずかな湿りが皮膚を滑り、過去と今の境を曇らせる。

やがて石は、ただの重みとして手の内に収まる。

 

 

低くたゆたう空気は、音を吸い込み、世界の縁をぼかしていく。

歩幅は自然と狭まり、ひとつひとつの動きが深く沈む。

 

 

足元に広がる粒の感触が、均一ではないことに気づく。

細かなものと粗いものが混じり、踏むたびに異なる響きを返す。

その不揃いが、確かな輪郭を持たぬこの場所を支えている。

 

 

遠くで砕ける気配が、遅れて胸の内に落ちてくる。

それは音である前に振動として広がり、内側の静けさをわずかに揺らす。

 

 

湿った風が頬を撫でるたび、温度の差が微かに刻まれる。

その繰り返しが、身体の内側に見えない線を引いてゆく。

やがてその線は消え、ただ感覚だけが残る。

 

 

薄明のような光が、水の表面でほどけ、境界をさらに曖昧にする。

視線を落とせば、揺れる影が足元に重なり、自分の輪郭すら溶けていく。

 

 

足を止めると、わずかな沈み込みが遅れて伝わり、地の奥が息づくように感じられる。

その微かな動きが、ここにあるはずの境を内側からほどいていく。

 

 

視線の端で揺れるものは形を持たず、ただ淡く連なっている。

それらは互いに触れずに重なり、分かたれることなく広がっている。

触れようとすれば遠のき、離れれば近づく気配がある。

 

 

掌に残る湿りが冷えへと変わり、皮膚の内側へ静かに沈んでいく。

その冷たさは痛みではなく、ただ存在の輪郭を細くなぞる。

 

 

歩みを再び刻むと、足裏に伝わる粒の崩れが、規則を持たぬ律動を生む。

その不規則さが、時間の流れを緩やかに歪めている。

呼吸の深ささえ、どこか均衡を失い、静かに揺れている。

 

 

かすかな光が漂い、濡れた面を伝って遠くへと逃げていく。

追うことはできず、ただその痕跡だけが瞼の裏に残る。

 

 

指先で触れた空気は重く、まるで形を持つかのように抵抗を返す。

その密度の違いが、見えない境を指し示しているように思える。

だが境は定まらず、触れた途端に溶けていく。

 

 

足首を撫でる冷えが次第に深まり、身体の中心へと静かに染み込む。

それは拒むべきものではなく、むしろ内へ迎え入れるべきもののように広がる。

 

 

遠くも近くも同じ密度で満ち、距離という感覚が薄れていく。

その中で、ただ一歩ごとの重みだけが確かに残る。

重みは消えず、しかし境界はどこにも見つからない。

 

 

やがて足を運ぶ力が緩み、立ち尽くすことと歩むことの違いが曖昧になる。

湿りを帯びた風が、来た道と行く先の区別をそっと撫で消していく。

 




足裏に残る感触は、いつしか記憶よりも浅い層へと沈んでいく。
それでも消えきらず、形を変えながら内側に留まり続ける。


触れていたはずの冷えは、やがて境を失い、温もりと混ざり合う。
その混濁の中で、区別という感覚だけが静かにほどけていく。
何かを越えたという確信もなく、ただ在り方が移ろっている。


最後に残るのは、歩みの重さでも景色の名残でもない。
曖昧なまま広がる気配が、内と外を繋いだまま静かに漂っている。
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