泡沫紀行   作:みどりのかけら

1163 / 1193
淡い朝の気配が、まだ名を持たぬ境目をそっと撫でていた。
乾ききらぬ空気が肌にまとわり、遠い甘さを含んだ匂いがかすかに混じる。


見えぬはずの線が、足先の感触としてわずかに浮かび上がる。
踏み越えるたび、その線はほどけ、また別のかたちで現れてくる。


何も確かめぬまま歩き出すと、内側の静けさが外の揺らぎに溶けていった。



1163 秋風に揺れる黄金の果実園

秋の気配は、まだ遠慮がちに指先へ触れてきた。

柔らかな風が頬を撫で、どこか甘い匂いを運んでくる。

 

 

低く広がる枝の下をくぐると、葉の影が細かく揺れ、光は粒となって地面に散った。

足裏に伝わる土のやわらかさが、静かに歩幅をほどいていく。

熟れた実の気配が、まだ見えぬ奥から滲み出していた。

 

 

枝先に吊られた丸い影は、陽を受けて鈍く光り、風に合わせてわずかに揺れていた。

 

 

指先で触れた葉は、乾き始めた縁がわずかに反り、紙のような軽さを帯びていた。

その裏に残るひんやりとした湿り気が、朝の名残を閉じ込めている。

 

 

ひとつの実に手を伸ばすと、ざらりとした皮が掌に応え、重みが確かにそこにあった。

抱え込むように支えると、内側に秘めた水の気配が微かに伝わる。

かすかな甘い匂いが、指の隙間からゆっくりと立ち上った。

 

 

風は時折強まり、葉擦れの音を重ねて、遠くで波のように揺らしていた。

その音の中に立つと、自分の輪郭が少し曖昧になる。

 

 

噛みしめた果肉は、思いのほか硬く、しかしすぐにほどけて透明な水を放った。

冷たい甘さが舌の上に広がり、喉の奥へと静かに流れ落ちる。

その一瞬の清らかさが、胸の内に薄い光を灯した。

滴る汁が手首を伝い、ひやりとした線を残して消えていく。

 

 

枝の間から差し込む光は、先ほどよりもやや傾き、色を深めていた。

 

 

歩みを進めるたびに、土の匂いと甘い香りが混ざり合い、呼吸の奥へ沈んでいく。

葉陰の冷たさと陽だまりの温もりが交互に肌を撫で、境目を曖昧にする。

その揺らぎの中で、確かだったはずの時間の流れが、少しずつほどけていった。

 

 

実の影が地面に落ちると、その輪郭はわずかに揺らぎ、形を定めきれずに滲んでいた。

踏み込むたび、その曖昧な影が足元でほどけ、また結び直される。

 

 

葉の隙間を抜ける風が、耳の奥でかすかな音を立て、遠い記憶を撫でるように通り過ぎる。

その気配に身を委ねると、胸の奥で何かが静かに緩む。

確かめることもなく、ただそこにある揺れを受け取る。

 

 

手のひらに残る果汁は、乾きかけて薄い膜となり、指の動きにわずかな抵抗を与えていた。

 

 

足元の土はところどころ固く締まり、かかとに重さを返してくる。

それでも一歩ごとに、わずかな沈み込みが体を支え、歩みを静かに続かせる。

 

 

枝の低さに合わせて身をかがめると、背に触れる葉が衣を撫で、さらりとした音を残す。

その触れ方はどこか優しく、境界を確かめるようでもあった。

かすかな擦れが、身体の輪郭を静かに浮かび上がらせる。

 

 

光はさらに傾き、実の表面に淡い陰影を刻み、丸みをいっそう深く見せていた。

 

 

風が止むと、あたりは急に静まり、耳に届くものが自分の呼吸だけになる。

その規則正しい揺れが、空気の中に小さな波紋を描いていく。

やがて再び風が動き出し、その波紋をやさしく崩した。

 

 

指先でなぞった幹の肌は、ざらつきと冷たさを同時に含み、時間の層を感じさせる。

細かな凹凸に触れるたび、そこに積もった季節の重なりが静かに伝わる。

 

 

歩みを止めた場所で、甘い香りがわずかに薄れ、代わりに乾いた葉の匂いが立ち上る。

その変化は微細でありながら、確かに何かが移ろったことを知らせていた。

振り返ることなく、そのまま前へと足を運ぶ。

 




光が傾ききる頃、影は長く伸び、やがて輪郭を失い始めていた。
足元にあったはずの境は、もう形を保たず、柔らかな余白へと変わっている。


指に残るかすかな甘さは、風にさらされて薄れ、代わりに乾いた感触だけが残った。
それでもその痕跡は、確かに触れていたものの重みを静かに伝える。


歩みを止めることなく進むうちに、来た道の気配は音もなく遠ざかる。
残されたのは、ただ揺らぎの中でほどけ続ける感覚だけだった。
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