泡沫紀行   作:みどりのかけら

1181 / 1197
淡い光がまだ定まらぬころ、足元の影は形を持たずに揺れていた。
踏みしめる土は乾ききらず、指先に触れる空気もまた曖昧な温度を帯びている。
その曖昧さの中で、私はまだ境目を持たない感覚に包まれていた。


遠くに広がる水の気配は見えぬまま、ただ静かに呼びかけてくる。
耳ではなく、胸の奥の柔らかな部分がそれを受け止め、わずかに震える。


歩みを進めるごとに、輪郭のない何かが背後から離れていく。
それは過去と呼ぶには軽すぎて、ただの残響として足元に溶けていった。
振り返ることはせず、そのまま前へと進み続けた。



1181 湖面に映る幻の竜の鏡

薄い霧が水面に沿って漂い、足元の土は湿り気を帯びて柔らかく沈んだ。

靴底に伝わる冷たさが、見えない深みへと誘うようにじわりと広がる。

 

 

岸辺の草は季節を忘れたように色を曖昧にし、風のたびに細く擦れ合った。

その音は遠い記憶の断片のように断続的で、耳の奥でほどけていく。

私は歩みを緩め、足裏に残る微かな振動を確かめた。

 

 

水は静まり返っているのに、どこかでゆるやかに息をしている気配があった。

覗き込めば、底のない暗がりが薄く揺れ、指先に触れたくなる衝動がかすめる。

 

 

乾いた枝を踏みしめると、硬い音が澄んだ空気に溶け込まず残った。

その残響は水面に触れて形を変え、見えない波紋として広がるようだった。

私はその広がりに合わせて、呼吸の間隔を少しだけ長くした。

 

 

湖面には空が映るはずなのに、そこには淡い鱗のような光が連なっていた。

光はすぐに崩れ、何もなかったかのように平らに戻る。

 

 

指先を水に近づけると、冷えた気配が先に触れてくる。

触れずとも伝わるその温度は、皮膚の奥へ静かに沈み込んだ。

わずかな震えが腕を伝い、身体の内側に小さな空白を残す。

 

 

風が止むと、周囲の輪郭が曖昧になり、遠近の境が溶けていく。

目を凝らすほどに、見えるものが後退し、代わりに何かが近づいてくる気がした。

 

 

足元の石は丸く滑らかで、長い時間をかけて角を失っている。

掌に拾い上げると、湿りと重みが均等に広がり、どこにも偏りがない。

その均衡が崩れる瞬間を想像すると、胸の奥がわずかに軋んだ。

 

 

再び水面を見ると、先ほどよりも深く、暗い層が重なっているように感じられた。

その奥で何かが身じろぎした気配だけが、確かに残っていた。

 

 

水際にしゃがむと、土の匂いが濃く立ち上り、喉の奥にわずかな苦みを残した。

その苦みは時間を遡るように、遠い季節の影を舌に運んでくる。

 

 

静かな面に、細い筋のような揺れが走り、すぐに消えた。

それは風とは異なる意志を持ち、内側から押し上げる気配に似ていた。

私は視線を外せず、瞬きの間さえ惜しく感じた。

 

 

耳を澄ませば、水の底で何かが擦れるような鈍い響きがある。

その響きは骨に近いところで受け止められ、外へ逃げずに留まった。

 

 

足先をさらに前へ出すと、ぬかるみが深くなり、わずかに沈み込む。

引き抜くたびに粘りが絡みつき、遅れて離れていく感触が残る。

その遅れが、ここに流れる時間の癖のように思われた。

 

 

水面に映る影は、空でも私でもなく、別の輪郭を帯び始める。

長く連なる線がゆっくりと曲がり、やがて形を保てず崩れていく。

 

 

胸の内で息が浅くなり、代わりに周囲の気配が濃くなる。

皮膚の上に乗る空気が重みを増し、逃げ場を探すように漂った。

私はその重みを拒まず、ただ受け止めるしかなかった。

 

 

指先を水に触れさせると、予想よりも柔らかな冷たさが広がる。

硬さのないその感触は、境界を曖昧にし、触れた場所を消していく。

 

 

かすかな波が広がり、その中心にだけ深い色が残る。

その色は底へ沈まず、逆に浮かび上がるように揺れていた。

私はそこに目を留めたまま、動くことを忘れた。

 

 

やがて風が戻り、表面のすべてを均していく。

残されていた気配は跡形もなく消え、ただ静けさだけが戻る。

それでも足裏には、先ほどとは異なる重みが確かに残っていた。

 




やがて光は傾き、足元の影が細く長く引き延ばされていく。
その影は地面に縫い付けられるように伸び、動きと切り離されていった。


水面はすでに見えずとも、その冷たさだけが皮膚に残っている。
触れたはずのない場所にまで、その感触が広がり、境界を曖昧にする。
私はそれを拭うことなく、そのまま抱え続けた。


最後に残るのは音でも形でもなく、ただ足裏に沈むわずかな重みだけだった。
その重みはやがて均され、どこにあったのかも判別できなくなる。
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