泡沫紀行   作:みどりのかけら

12 / 1179
時が沈黙する場所がある。
それは、風と水と巨木たちのあいだに宿り、
人が言葉を持たぬ頃の呼吸を、いまも続けている。

私は歩いた。
苔の匂いに導かれ、
忘れられた神話の縁(ふち)に触れるために。

大地の鼓動を、静かに聴くために。


0012 風渡る巨木

川沿いの獣道を進むにつれ、

風の音は、低く深くなっていった。

 

耳を澄ませば、

それは獣の声ではなく、

地の底を這う精霊の囁きにも似ていた。

 

 

 

辺りには、言葉がなかった。

けれど、言葉よりも確かなものが満ちていた。

それは匂いであり、湿度であり、

陽を透かす葉の青みだった。

 

 

 

谷は深い。

 

両脇を切り立った岩壁に囲まれたその道は、

まるで大地が開いた古傷のようだった。

無数の時が降り積もり、

踏みしめられ、朽ち、苔生した。

 

 

 

その先に、巨木が立っていた。

 

一本ではない。

無数の、時間そのもののような幹たち。

どれも太く、裂け、曲がり、うねりながら、

空を仰いでいた。

 

 

 

その中の一本の前で、私は足を止めた。

 

 

 

根は岩を抱くように張り、

地面から浮かび上がっていた。

触れようと手を伸ばすが、

ためらいが胸に生まれた。

 

それは、何かを守っているようだった。

もしくは、何かを封じているようにも見えた。

 

 

 

木肌は深く裂け、

その溝には古い風が宿っていた。

耳を近づけると、

そこから、風が語るような気配がした。

 

 

 

水の音が、下方から響いてくる。

 

私は崖のような坂をゆっくりと降りて、

石の多い川辺まで歩いていった。

 

 

 

そこでは、太古の流れが生きていた。

 

 

 

岩は鋭く、重たく、冷たかった。

水はそのすべてを削りながら、

どこか遠い、決して戻れない場所へと進んでいく。

 

 

 

私は川のほとりに腰を下ろし、

冷気に触れる掌を膝に置いた。

 

鳥の声はなかった。

虫の音もなかった。

 

 

 

あるのは、

岩を撫でていく水の滑るような音。

そして、風が木の葉を掠める、微かな震え。

 

 

 

不思議と、それが心を満たしていく。

 

 

 

空を見上げれば、

太陽はもう南へ傾き、

長い枝が川面に影を落としていた。

 

その影は、まるで橋のようだった。

時間をまたぐ橋。

過去と今とを繋ぐ橋。

 

 

 

私はその影の向こうに、

かつて人が祈りを捧げていた形を見た。

 

ただ、木と岩と水しかなかったこの場所に、

かつて誰かが何かを願い、

手を合わせ、言葉を残したのだと。

 

 

 

残されたのは、

祈りの言葉ではなく、

ただその行為の痕跡だった。

 

 

 

岩に刻まれた無数の窪み。

木の幹にそっと添えられた白い石。

 

 

 

人は何かを伝えようとしていたのだろうか。

それとも、ただ沈黙のなかに身を委ねたのだろうか。

 

 

 

私は立ち上がり、再び巨木のもとへと戻る。

さきほどの木に背を預け、

目を閉じて、深く息を吸い込む。

 

 

 

風が吹いた。

 

高く、深く、

まるで空の底から這い出してくるような音が、

枝々を渡って、私の肩を優しくなでた。

 

 

 

その瞬間、私は確信した。

この木々は、生きている。

 

 

 

ただ葉を揺らしているのではない。

この地全体が呼吸をし、

その一部として私も、

今この瞬間だけ、許されてここに在るのだと。

 

 

 

時の流れは止まらない。

だが、ここでは刻まない。

ただ、漂っている。

 

 

 

私は再び歩き出す。

 

振り返ると、

巨木たちは何も言わず、ただ立ち続けていた。

 

まるで、ずっとそうであるかのように。

 

 

 

この谷に、声は要らない。

ただ風だけが、すべてを語ってくれる。

 

 

 

その風に背を押されながら、

私は、森の奥へと消えていった。




風に触れ、木に触れ、
それでもなお、触れきれなかったものがある。

それはきっと、
人の記憶よりも遥かに古い、
大地の呼吸そのものだったのだろう。

私はそこに立ち会っただけ。
語らず、語られず、ただ在るものに身を委ねて。

あの風はいまも、巨木の間を静かに渡っている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。