それは、風と水と巨木たちのあいだに宿り、
人が言葉を持たぬ頃の呼吸を、いまも続けている。
私は歩いた。
苔の匂いに導かれ、
忘れられた神話の縁(ふち)に触れるために。
大地の鼓動を、静かに聴くために。
川沿いの獣道を進むにつれ、
風の音は、低く深くなっていった。
耳を澄ませば、
それは獣の声ではなく、
地の底を這う精霊の囁きにも似ていた。
辺りには、言葉がなかった。
けれど、言葉よりも確かなものが満ちていた。
それは匂いであり、湿度であり、
陽を透かす葉の青みだった。
谷は深い。
両脇を切り立った岩壁に囲まれたその道は、
まるで大地が開いた古傷のようだった。
無数の時が降り積もり、
踏みしめられ、朽ち、苔生した。
その先に、巨木が立っていた。
一本ではない。
無数の、時間そのもののような幹たち。
どれも太く、裂け、曲がり、うねりながら、
空を仰いでいた。
その中の一本の前で、私は足を止めた。
根は岩を抱くように張り、
地面から浮かび上がっていた。
触れようと手を伸ばすが、
ためらいが胸に生まれた。
それは、何かを守っているようだった。
もしくは、何かを封じているようにも見えた。
木肌は深く裂け、
その溝には古い風が宿っていた。
耳を近づけると、
そこから、風が語るような気配がした。
水の音が、下方から響いてくる。
私は崖のような坂をゆっくりと降りて、
石の多い川辺まで歩いていった。
そこでは、太古の流れが生きていた。
岩は鋭く、重たく、冷たかった。
水はそのすべてを削りながら、
どこか遠い、決して戻れない場所へと進んでいく。
私は川のほとりに腰を下ろし、
冷気に触れる掌を膝に置いた。
鳥の声はなかった。
虫の音もなかった。
あるのは、
岩を撫でていく水の滑るような音。
そして、風が木の葉を掠める、微かな震え。
不思議と、それが心を満たしていく。
空を見上げれば、
太陽はもう南へ傾き、
長い枝が川面に影を落としていた。
その影は、まるで橋のようだった。
時間をまたぐ橋。
過去と今とを繋ぐ橋。
私はその影の向こうに、
かつて人が祈りを捧げていた形を見た。
ただ、木と岩と水しかなかったこの場所に、
かつて誰かが何かを願い、
手を合わせ、言葉を残したのだと。
残されたのは、
祈りの言葉ではなく、
ただその行為の痕跡だった。
岩に刻まれた無数の窪み。
木の幹にそっと添えられた白い石。
人は何かを伝えようとしていたのだろうか。
それとも、ただ沈黙のなかに身を委ねたのだろうか。
私は立ち上がり、再び巨木のもとへと戻る。
さきほどの木に背を預け、
目を閉じて、深く息を吸い込む。
風が吹いた。
高く、深く、
まるで空の底から這い出してくるような音が、
枝々を渡って、私の肩を優しくなでた。
その瞬間、私は確信した。
この木々は、生きている。
ただ葉を揺らしているのではない。
この地全体が呼吸をし、
その一部として私も、
今この瞬間だけ、許されてここに在るのだと。
時の流れは止まらない。
だが、ここでは刻まない。
ただ、漂っている。
私は再び歩き出す。
振り返ると、
巨木たちは何も言わず、ただ立ち続けていた。
まるで、ずっとそうであるかのように。
この谷に、声は要らない。
ただ風だけが、すべてを語ってくれる。
その風に背を押されながら、
私は、森の奥へと消えていった。
風に触れ、木に触れ、
それでもなお、触れきれなかったものがある。
それはきっと、
人の記憶よりも遥かに古い、
大地の呼吸そのものだったのだろう。
私はそこに立ち会っただけ。
語らず、語られず、ただ在るものに身を委ねて。
あの風はいまも、巨木の間を静かに渡っている。