泡沫紀行   作:みどりのかけら

120 / 1191
雪が降り始めると、なぜか遠くへ行きたくなる。

風の匂いが変わり、景色が静まり返るあの瞬間、聞こえないはずの声がどこかで囁いているように感じる。
足元に続く白の道、立ち昇る息の気配、冷えた手のひらにそっと灯る温もり。

歩きながら、思い出すのは風景よりも、そこに漂っていた気配や、ふとした瞬間に交わるものたちの存在だ。

この旅も、そんなひとときの中にあった。


0120 火の精が見守る雪原の旅路

白の帳が地を覆い、空と大地の境がほどけていた。

風が粒子となって舞い、世界はかすかな音を閉じこめる。

すべてが息をひそめて、ただ雪だけが静かに語り続ける。

 

足元に、ひとつ、ふたつ。

深くはないが柔らかな沈みを残して、足跡は続いてゆく。

その軌跡に寄り添うように、木立が幹をゆらし、微かなざわめきが耳の奥をくすぐる。

 

灰色の空からは、絶え間なく白い夢が降っていた。

それは凍てついた詩のようで、触れれば崩れ、拾えば融ける。

掌に乗せたそれは、かすかに温かく、やがて透明になって消えた。

 

遠くに、赤い明滅が見えた。

それは灯とも呼べず、火とも言い切れない。

まるで誰かの記憶のなかで燃え続ける焰のように、風に揺れていた。

 

近づけば、鉄の小さな箱が雪に沈んでいた。

その中で、ひときわ強く燃える芯があった。

囲炉裏に似た形のその火は、黙って周囲を温めていた。

鉄の床に落ちる焰の影が、まるで獣の息のように揺れていた。

 

誰もいないのに、誰かがそこにいた気がした。

木製の座面は乾いたぬくもりを保ち、積もった雪だけが時間の流れを語っている。

 

焰のそばに腰を下ろす。

指先がかじかんでいても、火の気配がすぐに染み渡ってくる。

じんわりと、皮膚の奥にまで広がって、少しずつ感覚が戻る。

 

鉄の壁に残された煤の痕が、風の通り道を語っていた。

火の精がいたのなら、ここに長く留まっていたに違いない。

吹きさらしの野に、こんなにも温かな場所があるとは、思いもよらなかった。

 

背に木の壁を感じ、目を閉じる。

風の音が遠くなり、雪が擦れる音が耳の奥でほどけてゆく。

鼓動と焰のゆらぎが、同じ律動で響き合っていた。

 

ここで眠ることもできると思った。

白い世界のなかで、焰に抱かれて。

それが終わりであってもかまわない、そんな静けさだった。

 

けれど、まだ歩けると思えた。

まだ、先にある白の向こうへ。

焰がただ見送るように、何も言わずに燃えている。

 

立ち上がると、体が少し軽くなっていた。

背中に染みついた温もりが、まだ残っている。

雪の匂いの中に、煤の甘い香りが混じっていた。

 

白い靄の中、足をまた前に出す。

焰は背後で、小さく、優しく揺れていた。

 

遠くの木々の間から、風が新たな音を連れてくる。

雪の軋む声。

枝を払う落雪の囁き。

知らない鳥のかすれた羽音。

 

音のない世界で、音だけが現実だった。

それを追いかけるように、また一歩を踏み出す。

 

やがて足元に、凍った水の流れが現れる。

透き通るその川は、天から落ちた星を抱いていた。

氷に閉じこめられた泡が、何かを語りかけてくる。

記憶のようで、夢のようで、どこか懐かしい音だった。

 

指先を水面にかざすと、凍った表面の下に微かな動きがあった。

生命の気配が、まだこの静寂の奥に潜んでいた。

それは、寒さの底で眠る星の歌のようだった。

 

川を渡るには、迂回を許さぬ氷の橋を信じるしかなかった。

踏み出すたびに、靴底と氷が響き合い、小さな悲鳴のような音が足元に走る。

音が遠くへと消えていくたび、背後にある焰の温もりも薄れていった。

 

白くかすむ地平を見つめながら歩く。

風はますます細く、冷たく、頬にふれるたび皮膚の内側まで冷えてゆく。

それでも凍てついた世界の中に、どこかほのかな光の気配がある気がした。

それは空からではなく、雪の下に潜む小さな命たちが放つ、忘れられた熱のようだった。

 

斜面をのぼると、雪は膝まで沈んだ。

木々の背丈は低くなり、枝という枝が霧氷に覆われていた。

白銀の細工が空中に浮かび上がるように、ひとつひとつが輪郭を持っていた。

ただの雪ではない。

それは時間のひとしずくであり、風の記録だった。

 

ひと息を吐くと、音のない息が空にほどけていった。

その白さは、見上げる空よりも透明だった。

指をかざすと、空気が硬質な冷たさでまとわりつき、まるでこの世界そのものがガラスでできているように思えた。

 

そして、道はふいに開けた。

眼前に広がるのは、まるで雪の海。

誰も足を踏み入れていない、眠れる原野。

ただ風だけが、そこを通り抜ける。

 

広大で、静かで、心が吸い込まれそうになる。

ただ立ち尽くすことしかできず、呼吸だけが確かな現実だった。

目を閉じると、焰の記憶が胸に灯る。

あの密やかな赤が、まだどこかで燃えている。

 

雪原を横切りながら、わずかな起伏を感じる。

足の裏から伝わる地の輪郭は、地図には描かれない凹凸だった。

それが、過去に誰かが歩いた痕跡なのか、あるいは風と雪が刻んだ偶然の彫刻なのかは分からない。

けれど、それでも確かに感じるものがあった。

そこには、確かに「誰か」が存在した余韻があった。

 

手を伸ばせば、空は遠く、地は深く、そして身体はここにある。

寒さの痛みもまた、確かな輪郭の一部だった。

 

小さな岩が雪から顔を覗かせていた。

腰を下ろすと、石の冷たさが骨に染みた。

目を閉じる。

風の向きが変わる。

 

聞こえたのは、遠くの木々がこすれる音。

それはどこか焰に似ていた。

火の精がまだ、どこかで見守っているのだと思った。

 

雪の中に沈みながら、耳を澄ませる。

音のない旋律が、空から降ってきた。

かすかな振動が、大気の底から湧き上がる。

まるで、星が眠る地の底で、誰かが詩を詠んでいるようだった。

 

その声に、答えたくなる。

名もないままに、名を呼ばれたような気がして。

雪の中でただ目を閉じると、焰と雪と声が、すべて溶け合っていく。

 

やがて立ち上がり、また歩き出す。

焰のぬくもりは遠ざかったはずなのに、心の奥でいまだ燃えている。

その火は、もう消えない。

たとえ風が吹きすさび、雪がすべてを覆い隠しても。

 

歩みの先には、また白い世界。

けれど、ただの白ではない。

そこには、名もない物語が埋もれている。

焰が見守るこの旅路の果てで、きっとまた何かが目を覚ます。

 

それを信じて、雪を踏みしめる。

音もなく、静かに、深く。

白の中へと。




あの火は、今もどこかで燃えているのかもしれない。
言葉にはならなかった想い、足跡に紛れた記憶、雪に溶けていった小さな声。
振り返っても何も残ってはいないが、それでも胸の奥には、確かにひとつの灯が宿っている。

それだけで、もう一歩を踏み出せる気がする。

この冬の旅は終わったけれど、焰の残り香と共に、また別の白の道がどこかで待っている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。