泡沫紀行   作:みどりのかけら

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秋の風が遠くから吹き寄せ、静かに色づいていく時期になると、足が自然と北の方へ向くことがある。

ただ歩き、ただ風に吹かれているうちに、ひとつの灯火に出会った。
それは、地図にも記されていないような場所に、声もなく佇んでいた。

誰のものでもないはずなのに、確かに「誰か」のために灯り続けている──

そんな不思議な気配を湛えていた。

冷えた空気に包まれながら、その前にしばし腰を下ろし、耳を澄ます。
語らぬものの中にこそ、深く息づいているものがある。


0121 夜を守りし魂の灯火

干からびた葦が風に鳴る。

音もなく移りゆく季節のほつれ目を、指先がなぞった。

土の匂いは既に湿りを捨て、ひび割れた小道に乾いた風が擦れ、細く低い旋律を紡いでいる。

遠くに山の背骨がうすく横たわり、茜の名残を抱いた雲が、まるで息を潜めるようにその陰影に沈んでいく。

 

歩みを止めた足裏に、落葉のやわらかな厚みが沈む。

黄と褐の層を、季節が丹念に重ねたのだ。

細く折れた枝を踏む音が、森の静けさを少しだけ壊す。

 

あの場所は、すぐそこにある。

 

それは、いつからか夜に立ちつくしていた。

名もなく、語られず、ただ夜ごとに灯りを宿す。

形は素朴で、石を重ねたような背の低い塔。

だが、そのくすんだ表面には風の通り道があり、月の影がひそやかに降りてくる場所でもあった。

 

誰が最初にここを灯したのだろう。

光は目に刺さるほどの強さではなく、ほのかに、肌の奥まで沁みるようだった。

そこに立つと、風が遠ざかり、音が沈み、空気そのものが古い夢のように鈍色に揺れる。

 

手を伸ばせば届くはずなのに、どこか遠い。

 

夜が深まるほど、その光ははっきりとしていく。

まるで自らが闇を引き寄せているかのように。

 

冷たい石の縁に腰を下ろすと、背中から重さが地へと沈む。

空は濃紺に染まり、星が一つ、また一つと現れる。

けれども、この場所に立つ光は、それとは違う、内側から燃えている。

 

風が衣を撫でていく。

ここでは、時間がかすれ、名前をなくす。

思い出すことさえ、どこか遠ざかる。

代わりに、指先や耳の奥に沈む気配だけが、確かにこの場に根を張る。

 

見上げれば、塔の灯が揺れていた。

風に抗うようでもなく、ただそこに在ることを選んでいるように。

まるで、夜そのものに語りかける者のように。

 

沈黙が深まるほど、周囲の気配はくっきりと浮かび上がる。

小さな生き物が落ち葉の下でうごめき、どこか遠くで水音が絶え間なくささやく。

そのすべてが、灯のまわりに吸い寄せられている。

 

火は誰のために灯るのか。

 

答えを知らぬまま、それでもこの場所は、夜ごとに灯され続ける。

手のひらをかざしても、熱はわずかしか伝わらない。

だが、そのわずかな熱こそが、夜の深みにあっては確かな命のように思えた。

 

指先に、少しだけ土の感触が残る。

立ち上がり、再び歩み出す。

影が伸び、灯りが背を追う。

けれど、どこまでも届くわけではない。

 

その明かりは、ただ夜の中にあることを選び、誰をも照らしきることはしない。

 

けれども、ほんの一瞬でも、そこに立った者の中に、ひそやかに灯が宿る。

 

ゆるやかに、吐息が白んでいく。

秋が、夜を静かに抱いている。

 

苔むした岩肌をなぞるように、手のひらが冷たさを拾っていく。

掌の下で、幾度もの季節が降り積もった気配がじんわりと沁みる。

触れるたび、皮膚の内側がゆっくりと静まっていくようだった。

 

灯火の残像がまだ目の奥にある。

まぶたを閉じれば、夜の奥底に潜むような光の記憶が、ゆらゆらと揺れる。

言葉では捉えきれぬ、けれど確かにそこにあった気配。

 

遠くから梟の声が落ちる。

ひとつだけの、短く低い音。

木々の影が身じろぎ、夜の姿が微かに揺れた。

冷たい空気が頬を撫でるたび、肺に染み込んでいくような静けさが、心の奥に波紋を広げていく。

 

足元には、名もない草が肩を寄せ合っている。

その小さな葉にも、風が言葉を置いていく。

しゃらり、と触れる音に、何かが胸の奥で小さく鳴った。

 

歩くたび、夜が深まる。

星の粒が、森のすき間からぽつりぽつりと顔をのぞかせてくる。

ひとつ、またひとつ。

やがて、見上げた空は、声を潜めた星々のさざめきに埋め尽くされていた。

 

それでも、あの塔の灯りだけは、決して空へは届かない。

 

それは夜のための灯であって、空を照らすものではなかった。

 

夜の奥深くに沈むもののために。

彷徨う気配のために。

もしくは、灯を知ることさえできぬ、忘れられた魂のために。

 

ふいに、足が止まる。

 

ひらりと落ちてきた葉が、肩に触れた。

赤く、かすかに濡れていた。

空を見上げると、月がひとかけら、雲の隙間に浮かんでいた。

その光は冷たく、遠い。

それでも、夜をすこしだけ撫でるように照らしている。

 

吐く息が、白くなった。

まるでそれが夜の欠片のように、空気の中でふわりと散っていく。

 

長い道を、灯火の記憶だけを背に進む。

歩くほどに音が消え、体温さえも遠くなる。

それでも足は止まらず、ただ一歩ずつ、土を踏みしめる。

 

あの塔は、誰にも呼びかけない。

名を問うこともなく、足音にも振り向かない。

 

ただ夜を、ずっと見つめている。

 

灯が絶えぬように。

闇に沈みすぎぬように。

 

そしてたぶん、誰かが、ふたたびそこに立つその時のために。

 

ふと、頬に触れた風が温かかった。

 

まるで、ひとつだけ、忘れられていた記憶がやわらかに胸の奥を撫でたような。

 

夜は深く、広い。

けれども、そのどこかに、あの灯は今日も息づいている。

 

誰にも知られぬまま。

ただ、そこに在るために。




かすかな火が夜のなかに灯っていたという、それだけの記憶が、今も胸の奥に残っている。
声を持たず、姿を変えず、ただそこにあったというだけの光景が、なぜこれほどまでに忘れ難いのか。

ふと立ち止まるたび、あの灯火の温度が思い出される。
それは、道に迷ったわけでも、目的を見失ったわけでもない、けれど確かに「夜」のなかにいたときの感触だった。

今もどこかで、あの灯は静かに息をしているのだろう。
目には見えずとも、歩く足の片隅に、そっと寄り添っているような気がする。
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