泡沫紀行   作:みどりのかけら

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柔らかな風が吹き始める頃、歩きたくなる場所がある。
その地を初めて訪れたはずなのに、なぜか心の奥底に微かに残る感触を覚えることがある。
咲いては散る花、空を渡る雲、土に触れる足の裏。
どれも確かにここにありながら、どこか遠い記憶のようでもある。
そんな季節の隙間にふと立ち止まり、目を閉じて耳を澄ませると、風の向こうから、誰かのうたう声が届くような気がした。

そういう静かな日が、ときどき、ある。


0122 永遠を秘めた謎の眠り

斜面を踏むたびに、乾いた土の下から小さな音が立った。

それは地の奥底で眠っていた声のようでもあり、呼吸を忘れた大気の吐息のようでもあった。

霞む陽が、枝を透かして薄紅を落とす。

足元に積もる花びらは、すでに風のかたちを失い、名を持たぬ記憶のように折り重なっていた。

 

しずくのように残る雪が、影の底にわずかに息づいている。

春のまばたきは、まだ醒めぬ眠りと混ざり合い、木々の幹にかすかな脈を刻む。

幾重にも続く丘陵のむこうに、まだ誰も名づけぬ歌が眠っているような気がした。

鳥たちの影が天頂をよぎる。

羽音はなく、ただ光の隙間が揺れている。

 

道なき道を登ると、風の流れが変わった。

一枚の石が、そこにあった。

人の手が置いたのか、それとも時の流れが寄り添わせたのか。

苔むした表面に、指を添える。

ひんやりとした感触が皮膚に染み渡り、掌にうつる微かなざらつきが、言葉にならぬ問いのように心に残った。

 

その傍らに立つ木は、幹の中に空洞を抱えながら、今も芽吹いていた。

空洞の奥には闇ではなく、薄青く震える光があった。

覗き込むと、どこか遠い昔、誰かがここに腰を下ろし、春の気配を数えていたような錯覚が訪れた。

芽吹くことも、枯れることも、すべては一つの夢の織り目なのかもしれない。

 

あたりには誰の気配もなく、ただ風だけが長いあいだこの場所を見守っていたようだった。

石の並び方が不自然に整っている。

けれども、それを祀りの跡とも、誰かの墓とも、言い切ることはできなかった。

空には細い雲が流れ、その切れ間から金のような光が地を縫っていた。

 

ふと、かすかな音が聞こえた。

それは旋律というにはあまりに単調で、しかし風のざわめきとも違っていた。

乾いた大地が、春の下でうたっている。

何を語っているのかはわからなかった。

ただ、その響きは耳の奥で繰り返され、まるで遠い土地の子守唄のように、心を包み込んだ。

 

指先に残る苔の感触が、まだ肌に残っている。

ひとつひとつの葉が、触れれば崩れそうなほど脆く、それでもなお、陽に向かって広がっていた。

その強さに気づいたとき、目の奥にひとすじの光が差し込んだような気がした。

 

ゆるやかな下り道を歩く。

小川のせせらぎが、どこからともなく聞こえてくる。

足を止めると、ふいに冷たい風が衣の下から差し込んできて、喉の奥に春の匂いが滲んだ。

それは、土と芽吹きと、長く眠った誰かの夢の名残りだった。

 

木立の合間から、ひとつの石碑が顔を出している。

形は崩れかけているが、その上に咲いた小さな花が、まるで祈るようにうつむいていた。

手をのばし、花弁に触れる。

その柔らかさは、まるで語りかけるように、確かな温もりを伝えてきた。

 

その場にしばし留まる。

遠くの空に、ひとすじだけ雲の影が長く伸びていた。

陽は西へ傾きかけ、すべての色がゆるやかに翳りを帯びてゆく。

空気が少しだけ重たくなった。

春が、眠りの記憶をそっと撫でているようだった。

 

振り返ると、来た道にはもう足跡が見えなかった。

花びらがすべてを覆い隠し、歩いた時間さえも呑みこんでいる。

それなのに、心のどこかで、この場所を以前にも訪れたことがあるような感覚がよみがえる。

それが夢か現かの境すら曖昧で、名も顔も思い出せぬ誰かの面影が、花の匂いの中に漂っていた。

 

静けさの中に、遠くで小さな唄のような響きがまた聴こえた。

それは風が奏でるものでも、鳥の声でもなかった。

まるで地の底から立ちのぼるような、不思議な調べだった。

旋律は単調で、古い輪唱のように、空気にじわじわと染みわたってゆく。

 

ひとつの丘を越えると、裸のような野が広がっていた。

そこには木もなく、ただ背の低い草が春の陽に染まって揺れている。

遠くに人影のようなものが見えた気がして、目を細めるが、ただ石が立っているだけだった。

白く、削られ、風化しながらも、何かを訴えるように空を見上げていた。

 

その石の根元には、小さな窪みがあった。

雨水が溜まり、底には黒い葉が沈んでいる。

水面には空が映っていた。

けれど、その空には見えないはずの星が瞬いているように思えた。

耳を澄ませると、水面のきらめきに呼応するかのように、あの旋律がまた漂ってくる。

 

その唄には言葉がなかった。

けれど、意味だけは不思議と胸に届く。

すべてを包みこむような、あるいはすべてを見送ったあとの沈黙のような、遥かな時間がそこに横たわっていた。

 

足元の草の上に、誰かが置いたような小石の並びを見つける。

それは古い祈りの名残りか、それとも風が偶然描いたかたちか。

指でなぞると、砂がこぼれ、小さな昆虫が一匹、石の隙間から出てきて、陽の方へと進んでいった。

 

日が沈みかけていた。

空は薄い橙から鈍色へと変わり、地面の温度が静かに冷めてゆく。

春の昼の長さが、まるで夢だったかのように短く感じられる。

遠くから、またあの旋律が響く。

 

声ではなかった。

ただ、音のような気配が耳の奥に触れた。

それはかすかに波をうち、すぐに風の音に溶けた。

 

沈む陽の背に、もう一度あの丘を振り返る。

風に揺れる草が、まるで眠る誰かの髪のように柔らかくたなびいていた。

春の眠りは、まだ解けていない。

それでも、この地には確かに息づく気配がある。

言葉を持たぬ唄と、誰かがひそかに祈った記憶とが、土の奥深くに静かに織り込まれていた。

 

歩を進めるたびに、地面は柔らかく、夜の気配が衣の隙間から忍び寄ってくる。

だが、冷たさはなかった。

どこか懐かしい温度が、胸の奥に灯るように残っていた。

 

それはきっと、遠い昔に置き忘れてきた、小さな眠りの名残り。

春の闇が、そっとそれを包んでくれている。




歩いてきた道を振り返ると、そこにはもう足跡は残っていなかった。

ただ草が揺れ、花が散り、光がやわらかく地を撫でているだけ。
けれど、確かに何かを通り抜けたという感触が心に滲んでいた。
それはきっと、語られぬまま土の奥に残されたものたちの、ささやかな余韻なのだろう。

春の空の下で、ひとは気づかぬまま、いくつもの眠りと再会しているのかもしれない。
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