泡沫紀行   作:みどりのかけら

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深い季節の底に踏み入れたとき、風景は言葉を失い、ただ静かにこちらを見つめ返してくることがある。
音のない雪、絶え間なく立ちのぼる湯気、湿った木の匂い。

足を止めた場所に灯る、わずかなぬくもりが、時に心をゆっくりほどいていく。

そんなある冬の日、白に包まれたひとつの場所で触れた記憶を、そっとすくい上げたものである。


0128 灯火に包まれる静寂の隠れ里

雪は、ただそこにあるというよりも、降りるたびに世界の輪郭を少しずつ忘れさせるように積もっていた。

音のない時が流れるたび、白は白のまま深さを増し、歩む足の感触もやがて、夢の中のようにふわりと頼りなくなる。

 

尾根を越え、梢の影を縫いながら下りてくると、冷え切った空気の中に、かすかなぬくもりが漂い始めた。

霧にも似た蒸気が岩の隙間からゆるりと立ちのぼっている。

雪明かりに煙が溶け、森の奥深くに灯る小さな命のように見えた。

 

湿った苔の匂い。

閉ざされた地のはずれに、人の営みが今も続いているという気配。

風は息をひそめ、枝の重みに軋んだ音だけが、静けさの中で小さく響いた。

 

ひとつ、ふたつ。

水音が岩肌を打つ、やわらかな響きが近づく。

温もりは地中から溢れ出すように、足元からゆっくりと染み渡り、指先の感覚が少しずつ戻ってくる。

手のひらで触れた石のぬくもりに、体の奥で凍っていたものがそっと解けていくようだった。

 

やがて、灯が見える。

吹きさらしの細道の先、朧な橙が雪を濡らし、地面に溶けるような影を落としていた。

かすれた板の軒、軋む木の柱、そっと差し出された手のようなあたたかさ。

開かれた戸口から、白い湯気がふわりとこぼれ、肌を撫でた。

 

そこは、眠るように静かな里だった。

 

囲炉裏の火が、古びた柱の木目を照らしている。

天井から吊るされた小さな灯りが、湯気とともに揺れ、壁に優しい影を落とす。

誰かがここで生き、火を絶やさずにいた痕跡。

湯に満ちた器に手を伸ばすと、その熱が胸の奥にまで伝ってくる。

 

外の雪が、まるで音を吸い込むように降り続けていた。

音もなく、ただ白だけが降り積もる。

 

湯の中に身を沈めると、いくつもの気配が遠のいてゆく。

肩を撫でる湯のやわらかさ、目を閉じれば、まぶたの裏に広がる微かな光。

遠い昔に、まだ名も持たぬ頃の夢を見ているようだった。

 

時間は、もうどこにもなかった。

風も、鐘の音も、鳥の声すらも。

ひとつ、またひとつと、音が消えてゆき、あたたかさだけが、確かにそこに残っていた。

 

薪がはぜる音がして、しばしの現が戻ってくる。

湯気の向こうに、霞んだ窓の輪郭。

そこに映るものは、ただ静けさに包まれた世界だった。

誰のものでもない記憶。語られることのないまま、雪の下で眠り続ける物語。

 

ひとつ深く息を吸い込むと、肺の奥まで冷たさが染み込み、それでもなお、その中に微かな甘さを感じた。

木々の皮膚から滲み出すような、わずかな命の香り。

 

背を丸めた老木たちは、雪の重みに耐えながらも、どこかほっとしたように見えた。

ここは、もう争いも競いも遠い。

そうして沈黙の中に、確かなぬくもりが棲んでいる。

 

夜は、まだ完全には来ていなかった。

けれど空は、すでに藍の気配を孕んでいた。

薄明かりと湯気の向こうで、時の足音が遠ざかってゆくのがわかる。

 

明け方の光は、夜の余韻を壊さぬように、そっと降りてきた。

白一色の世界に、淡い青が差しはじめる。

その光は、冷たくも温かく、まるで遠くの空がゆっくりと目を覚ますのを見守っているようだった。

 

湯に濡れた肌を風が撫でる。

空気は澄み、骨の奥まで染み通る冷たさが、目覚めの気配を連れてくる。

炭の香りがまだ残る囲炉裏のそば、静かに湯をふくんだ布で手を拭う。

掌に残る熱が、いつまでも消えずにそこにあった。

 

戸を押し開けると、夜の名残を纏った雪面に、足跡ひとつなかった。

木々は黙したまま、朝を待ち受けている。

風もなく、空気は張り詰めていた。

雪が枝の上で薄く煌めき、音のない世界をより一層際立たせていた。

 

歩を進めるたび、足裏に感じる雪の軋みが、心の奥にやわらかく届く。

冷たさはもはや敵ではなく、言葉なき対話のように静かに寄り添ってくる。

呼吸は白く、ひとつ、またひとつと空へ還る。

その軌跡はすぐに溶けて、ただ風景に紛れた。

 

谷間を縫う細道に、積もった雪はしんしんと深く、何もかもを飲み込んでいた。

だがその深さが、不思議と心を軽くさせる。

背負っていたものが、ひとつ、またひとつと、肩から剥がれ落ちていく。

 

雪の下で眠るものたち――

枯れ葉、折れた枝、名もない虫の骸。

 

それらはすべて、静かに大地に還ろうとしていた。

死でも消滅でもなく、ただ、戻っていく。

温もりを宿した土へ、再び巡る命の輪のなかへ。

 

少し開けた場所に出ると、あの里が、白の中にぽつりと浮かんでいた。

今ではもう、煙も立っていない。

人の気配も遠のき、囲炉裏の火もとうに消えている。

それでも確かにそこに在るということが、雪に包まれながらも、心に静かに灯っていた。

 

あたたかさは、残響のようにまだ指先にあった。

湯の肌触り、柱の匂い、灯のゆらめき、そして沈黙のなかに満ちていた穏やかな気配。

それらがすべて、風景のひとつとして胸の奥に刻まれていた。

 

ふと、雪原に小さな赤が見えた。

冬椿だった。

凍てつく空気のなか、葉に包まれてなお凛と咲くその花は、まるで時間の隙間に咲いた想いのようで、立ち止まって見入ると、心に小さな灯がともったような気がした。

 

また歩き出す。

振り返れば、あの隠れ里はもう、薄靄に紛れていた。

灯火の記憶だけを手のひらに残し、雪の道を進んでいく。

 

風が、枝の間をすり抜けていく。

音ではない、気配だけのささやき。

足元の雪がまた一段と深くなる。

けれど、迷いはなかった。

白に包まれたこの世界の奥で、静かに、静かに、何かが変わりはじめているのを感じていた。

 

――次の灯を探すように。

名もなく、足跡も残さず、それでも確かに在る何かに導かれるように。

 

雪は降り続けていた。

けれどその白は、もう孤独ではなかった。




すべてが静まり返った白のなか、確かに存在していたぬくもりは、今も胸の奥で微かに灯り続けている。

名も、音も、姿さえも留めぬまま、それでも消えずに残ってゆくものがある。
雪に埋もれたあの里のことを、ときおり思い出す。

ふいに肌に触れる冷たさの奥に、あの火の匂いを感じたときのように。
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