泡沫紀行   作:みどりのかけら

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水に映るものは、空のかたちだけではない。
風の通り道、言葉にならなかった祈り、消えかけた記憶。
それらは名を持たぬまま、静かにそこに佇み続ける。

夏の深くに眠る気配に、ほんの少し、耳を澄ませてみる。


0129 水面に映る魂の舞台

水面は風を知らぬふりをしていた。

わずかに揺れながらも、透明な鏡を装い続けるその顔は、空の明るさと沈黙の森を受け止めていた。

 

草を踏みしめる音が、濡れた空気の底で鈍く響いた。

足裏から伝わる湿りは、夜の名残か、それともこの土地に染み込んだ記憶か。

苔むした石畳は静かに時を数えており、ひとつひとつに沈黙の気配が宿っていた。

 

息を吸えば、どこか遠くで熟れかけた果実の香りが揺れていた。

けれど、見上げても実の姿はない。

匂いだけが、この夏の光景に残された名残のように、薄く漂っている。

 

水に囲まれた道を渡るとき、足元の影がひとつぶ揺れた。

陽が差し込む湖面には、見えないはずのものまでもが映る気がして、足取りは自然とゆるやかになる。

橋の木肌は手のひらにざらつき、古い木の香が微かに爪の間に残った。

 

風が、低く歌った。

それは葉を揺らす音ではなく、耳の奥にだけ届く、懐かしさのかたちをした風音だった。

過ぎ去った声たちが、今もここで眠っているのだろう。

それらに触れぬよう、ただ目を伏せ、静けさの中に身を置いた。

 

ひとつ、鳥が水面に影を落とした。

羽ばたきのあとに残った波紋が、池の端へとゆるやかに広がっていく。

その動きが、まるで誰かの記憶のさざなみのようで、胸の奥で名もなきものが呼吸を始めた。

 

目の前に立つ鳥居の朱が、光を吸い込み、わずかに滲んでいた。

その朱は、血の色ではない。

燃え残った夕陽のかけら、あるいは遥か昔の祈りの名残。

 

境内の奥から聞こえてくる音は、風鈴ではなかった。

それは光そのものが揺れて奏でた音色で、葉の隙間からこぼれる陽光が奏でた、短く淡い旋律だった。

踏み石の間に咲く小さな花が、その音に応えるように揺れている。

 

水辺に佇むと、深い緑の中に、微かな白が見えた。

あれは衣か、それとも霧か。

それを確かめるためではなく、ただ目を離すのが惜しくて、足を止めた。

 

ここには名がないものたちが、確かな形を持たずに息をしている。

目を凝らしても見えぬものが、肌の温度として感じられる。

それらに包まれるとき、言葉は必要を失い、ただ在るということだけが真実になる。

 

時折、水面に映る空が揺らぎ、空がふたつになったように思える。

そのとき、世界は沈黙のなかで反転し、どちらが本物かを問うことをやめてしまう。

 

掌をひらいても、風の形は掴めない。

けれど、そこには確かに、涼しさという名の記憶が触れていた。

 

鳥の影が遠ざかり、森がまた静けさを取り戻す。

足元の影も戻ってきて、静かに水面のなかで揺れていた。

 

空の青さが深まりはじめた頃、木々の間に射す光もまた、細く、冷たくなっていた。

夕暮れではない。けれど、どこか終わりを感じさせる光だった。

 

幾重にも重なる葉のあわいが、風に揺れて囁いていた。

その声は、意味を持たず、ただ音として流れていく。

それでも、身体の奥に何かを残していくような気配がある。

 

足元に落ちた木洩れ陽は、まるで誰かの記した印のようだった。

触れればほどけてしまいそうなそれを、ひとつひとつ、踏まずに歩いた。

音を立てぬように。空気を乱さぬように。

 

石段の端には、水が細く流れていた。

土と苔に覆われた小さな流れは、声もなくただ、どこかへ向かっていた。

指を濡らせば、冷たさが骨の奥にまで届いた。

その冷たさに、ふいに過去の記憶が滲みかけたが、目を伏せてやり過ごした。

 

水面は、まだ鏡のままだった。

風が走っても、鳥が翔んでも、それをいっとき映したあと、すぐに沈黙へと戻っていく。

揺れた心もまた、かたちを持たず、すぐに深みに沈んでいく。

 

奥の社の気配に、足が止まる。

そこには誰もいない。

けれど、誰かの祈りが、まだかすかに残っている。

 

それは香りとなって漂い、石に染み、空気に溶けていた。

名を持たぬ願い。届いたかどうかさえ知られぬ言葉。

それらが、どこにも行き場を持たぬまま、ただそこにある。

 

苔むす木の根が、土を巻いてうねっていた。

その上を歩くと、足裏に不思議な重みが伝わる。

やわらかな土の中に、過去の影が埋もれているような感触があった。

 

立ち止まれば、音はすべて消えていた。

風も、葉も、水も、すべてが沈黙に包まれていた。

その静けさの中で、自分の呼吸だけが、唯一の音になった。

 

ふいに、ひとひらの白い羽が、水面をかすめた。

鳥の姿は見えない。ただ羽だけが、ゆるやかに舞い、やがて見えなくなった。

 

視線を落とすと、水に映る姿がこちらを見ていた。

それは、どこか知らない顔をしていた。

けれど、見覚えがあるようにも思えた。

 

指先がわずかに震えた。

それは寒さではなかった。

もっと遠くから来た、微細な振動だった。

 

そのまま、しばらく動かなかった。

どれほどの時が過ぎたかはわからない。

ただ、空がひとつになり、水面がふたたび鏡へと還ったとき、歩を進めた。

 

背を向けると、風がまた低く歌いはじめた。

その歌に、振り返ることはなかった。

すべてが、そこにあるままで、静かに息をしていた。

 

草を踏む音が、再び小さく響き、やがて遠ざかっていった。

 

水面に映る空は、何も変わらぬまま、ただ淡く揺れていた。




通り過ぎたはずの風が、背中に触れた気がした。
誰かの足音が、もう一度だけ、遠くで鳴った気がした。

忘れたつもりの記憶が、水面の揺らぎに重なって、
音もなく、また沈んでいく。

名もなきまま、残るものがある。
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