泡沫紀行   作:みどりのかけら

1336 / 1340
薄明の空に滲む光が、地の起伏をなぞるように広がっていく。
足裏に触れる冷えはまだ深く、歩みは静かに沈み込む。


乾いた風が頬をかすめ、遠くの気配を運んでくる。
それは形を持たず、ただ胸の奥に淡い重みを残していく。
見えない導きに従うように、歩みは自然と前へと傾く。


まだ名を持たぬ景の中で、影はわずかに揺れながら寄り添う。
その揺らぎが意味を持つ前に、静けさだけが広がっていく。



1336 時を綴る宿の記憶

薄曇りの空の下、足裏にひそむ冷えが石を通して静かに伝わってくる。

わずかに湿った土の匂いが、記憶の底をゆっくりと撫でていく。

 

 

古びた柱に手を当てると、乾いた木肌がかすかにざらつき、時の重みを含んでいた。

風が通るたび、見えない糸で引かれるように影が揺れ、内側へと導かれていく。

軒先の暗がりは、昼でありながら夜のように深く沈んでいる。

 

 

床板はわずかにたわみ、踏みしめるたび鈍い響きが足首に返ってくる。

その震えが骨の奥へ沁み込み、歩みをゆるやかにほどいていく。

 

 

閉じられた空間に差し込む光は薄く、埃が浮かび上がっては消えていく。

指先でそれを払うと、細かな粒が皮膚にまとわりつき、時間の残滓のように離れない。

目を細めるほどに、遠い気配が濃くなる。

 

 

壁の陰に滞る冷気は、肌を撫でるというよりも内側へと染み入る。

そこに立つだけで、呼吸が少しだけ遅くなるのを感じる。

 

 

奥へ進むほどに、光は薄まり、足音だけが確かな輪郭を持ち始める。

その音は自分のものなのに、どこか他者の歩みのように遠く響く。

空気は重く、触れれば崩れそうな静けさを抱えている。

 

 

戸の縁に触れると、冷えた感触が指先から腕へと伝い、わずかな震えを残した。

木目の間に入り込んだ影が、幾重にも折り重なり、時の層を示している。

 

 

ふと、足元に落ちる影が二つに分かれ、わずかにずれて揺れていることに気づく。

振り返っても何も変わらない景色が、なぜか違って見える。

その違和は静かに広がり、次の一歩をためらわせる。

 

 

息を整えようとするほどに、胸の内側がゆるやかに波打ち、均衡を失っていく。

揺らぐ影の端が視界に残り、消えきらぬまま次の瞬間へと重なっていく。

 

 

床の節目に沿って、かすかな温もりが線のように走り、足裏に違いを刻む。

その差異を追うように歩むと、見えない境が静かに開かれていく。

わずかな傾きが、重心を微妙に狂わせる。

 

 

壁に寄り添うと、ひんやりとした感触が背に広がり、呼吸の奥行きを変える。

触れているはずの面が、わずかに遠のくような不確かさを帯びている。

 

 

光はさらに淡くなり、輪郭を失いかけた物の気配だけが浮かび上がる。

指を伸ばしても確かめきれぬ距離が、静かに隔たりを深めていく。

その曖昧さに、意識がゆっくりと沈んでいく。

 

 

足を止めると、かすかな軋みが遅れて耳に届き、時間のずれを知らせる。

音の余韻が空間を巡り、戻るころには最初の位置を失っている。

 

 

ふと、肩口に触れる気配があり、振り払うように息を吐く。

だがそこには何もなく、ただ空気だけがわずかに温度を変えている。

そのぬくもりはすぐに消え、代わりに深い冷えが残る。

 

 

影は再び二つに分かれ、今度はゆっくりと重なり合いながら揺れる。

その重なりの中心が、かすかに脈打つように見える。

 

 

歩みを進めるごとに、足裏の感触が遠のき、地に触れている確かさが薄れていく。

浮かぶような不安定さの中で、ただ前へと引かれていく。

やがて、目の前の暗がりの奥に、かすかな光の揺らぎが現れ始める。

 




揺らぎの奥にあった光は、触れようとするたび遠ざかり、やがて静かにほどけていく。
足裏に戻る重みが、かすかな現実を取り戻させる。


残されたのは、確かに通り過ぎたはずの気配だけで、それはもう形を結ばない。
それでも胸の内には、わずかな温もりが消えずに留まっている。
触れたものの輪郭だけが、柔らかく余韻として残る。


振り返ることなく歩みを続けると、影は再び一つに収まり、揺らぎを失う。
それでもどこかで、もう一つの気配が静かに寄り添い続けている。
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