泡沫紀行   作:みどりのかけら

135 / 1188
足もとの道が静かに湿ってゆく頃、ふと、見慣れた風景の奥に、まだ誰の手にも触れられていない祈りの影が見えることがある。

言葉にならない記憶のような、名も持たぬ願いのような、そんなものが、木のかたちを借りて風の中に佇んでいる。
歩くたび、世界がわずかに揺れ、何かが耳元で囁いてくる。

目に見えないものに手を伸ばすように、ただ静かに、しずかに歩きたくなる時がある。


0135 疾風の魂を継ぐ願掛けの駒

風が、長く尾を引いて吹いた。

梢を舐め、苔を撫で、土の下に眠る根の眠りさえかすかに揺らした。

 

その尾の音が収まるころ、遠くの丘で、馬の形をした影が揺れた。

それは生きてはおらず、しかし朽ちてもいない。

無垢の木を刳り、朱に染め、古い息を吹き込まれたかたち。

願いを背負い、幾度も風を渡ってきた。

 

朝と夜の境が曖昧な頃、湿った道を踏み分けながら、足裏に小石の硬さを感じて歩いた。

草の匂いが地を這い、靄となって膝に絡みついた。

踏むたびに、湿り気を含んだ草が、かすかに音を立てる。

それは眠る誰かの吐息にも似ていた。

 

しずかに登ってくる光は、空の輪郭を金に縁取っていた。

鳥は鳴かず、虫もひそんでいた。

ただ、木の皮に這う小さな命のざわめきが、耳の奥で微かに跳ねた。

 

祈るように並べられた、木彫の駒たちがあった。

片耳に朱をさし、尾に藍を編み、目だけが遠くを見つめている。

何を知り、どこへ行くのか。

それは誰にも伝えられず、ただ立ち尽くしていた。

 

ひとつ、手のひらに取る。

木の温もりが、わずかに残っていた。

手の中で、古い記憶がひらかれてゆく。

それは自身の記憶ではなく、風に運ばれた誰かの記憶だった。

 

山を抜ける頃、空気は透明になり、肌を刺すように澄んだ。

葉はひとひらも揺れず、全てが見守るように静まっていた。

水音さえも遠ざかり、ただ息遣いだけが確かなものだった。

 

道端に、裂けた駒が落ちていた。

片脚を失い、塗りも剥げ、内側の木目があらわになっていた。

それでも顔は、静かに笑んでいた。

まるでその形のまま、風となる準備をしていたかのように。

 

ひとつ、石に腰を下ろす。

掌の駒と、足元のそれを見比べる。

どちらも、誰かの願いを宿している。

けれど、その重さは語られることがない。

 

遠くで、小さく揺れる木の鈴の音。

誰かがこの道を通った気配が、かすかに残る。

踏まれた草の寝跡、ちいさな足跡、残された布切れ。

それは、かつて駒を贈った誰かの証かもしれない。

 

この地に満ちる、名もなき祈りの残響。

ひとつひとつが、土に還ることなく、木の形を借りて生きていた。

沈黙のなかで、すべてが語られていた。

 

握った駒の重さが、ほんの少し変わった気がした。

それは、風の方向が変わっただけかもしれなかった。

 

木の道標に沿って下る小径は、苔に覆われ、ところどころ崩れていた。

乾いた枝を踏むたびに、かすかな音が返る。

音の消えるまで耳を澄ますと、遠くで、ひとつの雲がゆっくりとちぎれてゆく気配がした。

 

坂を下りきった先、細流がうねりながら石を撫でていた。

水は冷たく、掌を浸せば、指の隙間をすり抜けて消える。

川辺の石に、かつての願いが刻まれていた。

誰の名もないその文字は、風化し、もう読めない。

けれど、何かを願った手のひらの温もりだけが、今も石の奥に残っていた。

 

道なき草むらを抜け、しばらく歩くと、赤い駒がひとつ、枝に吊るされていた。

ひもは風にすれて細り、今にも切れそうだった。

空を向くその顔は、何かを探しているようだった。

 

そのまま歩き続けると、やがて樹々の間に開けた場所に出た。

そこには数えきれぬほどの駒が、棚のように組まれた石の上に並べられていた。

ひとつひとつに違う色、違う形、違う思いが込められているように見えた。

朱、藍、黒、金。

目元が欠けているものもあれば、尾が風にとけるように擦れているものもあった。

それでも、どれひとつとして沈黙していなかった。

ただ、祈るように、待つように、そこにあった。

 

駒を置く。

手にしていた小さなかたちを、そっと他の駒の間に滑り込ませる。

朱と藍のあいだ、微かに擦れた木肌が、隣の駒に触れた。

 

その瞬間、空気がふるえたような気がした。

実際に風が吹いたわけではない。

ただ、肌を撫でる何かが通り過ぎた。

それは気配か、あるいは声にならない声か。

 

沈黙のなかに、何かが動いた。

目には映らず、音もなく、それでも確かにそこにあった。

 

駒たちは話していた。

けれどそれは、音ではない。

重ねられた願いの重みが、木の形を借りて震えている。

 

歩き出す。

もう、手の中には何も持っていない。

けれど、肩に残る温もりがあった。

それは駒の形をしてはいなかった。

もっと柔らかく、もっと古く、もっと確かなものだった。

 

尾根の向こうから陽が差し、木々の影が長く伸びる。

歩くたびにその影が折れ、またつながる。

 

背にあるのは風の音。

足元には、踏みしめられた無数の願い。

 

やがて、遠くから小さな馬の鈴が聞こえてくる。

どこかで、また誰かが駒を彫っているのかもしれない。

 

それが何のためかを知らずとも、彫る手のぬくもりと、宿る風の気配だけが、この静かな星の上で、確かに受け継がれていた。




掌を離れた願いが、風の中で眠りながら、誰かの歩みに寄り添っている。
それは答えではなく、問いのようであり、あるいは永く続く余韻のようでもある。

何も語られないままに、しかし確かに伝わってくるものがある。
名もなき駒がひとつ、静かに立ちつくしていた風景の向こうに、まだ見ぬ記憶がひそんでいる。

その微かな気配にふれるたび、歩みはすこしだけ、やさしくなる。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。