泡沫紀行   作:みどりのかけら

136 / 1177
夏の終わり、石を敷き詰めた坂を下りながら、ふと、足裏に沁みるような音を聞いたことがある。

空がまだ明るいのに、光が遠のくような気配に包まれて、歩みは自然と静まっていた。
誰のものとも知れぬ舞の名残が、風の粒に紛れて漂っていた。
言葉にはならず、姿にもならず、ただ土地に溶けたまま、そこに在る。

そんな記憶に似た気配に出会ったとき、人は知らず祈りに似た心持ちで歩を進めるのかもしれない。


0136 波のように舞い継がれる哀の詩

水面を撫でる風の音が、遠くから織り重なるように聞こえていた。

乾いた小石が足の裏でころりと転がり、指の間からこぼれていく感触が、どこか懐かしい。

坂を下るにつれ、空気は次第に湿り気を帯びていく。

肌に触れる空の気配が重くなり、匂いが変わる。

焼けた地面の匂いに、塩と藻の気配が混じる。

 

ゆるやかに傾く道の先、霞のように揺れる踊りの残響が漂っている。

姿はまだ見えず、ただ風の粒子に滲んだ音が、鼓膜に触れるよりも深い場所で、ゆっくりと弾ける。

跳ねるようでもなく、ただ流れている。

呼吸の波のように、誰のものでもない哀の律動が続いていた。

 

道の脇に咲く草花は、どれも夏の重さを抱えていた。

白く透ける葉先が焼け、淡い黄に染まりかけている。

どこか遠くで水の弾ける音がした。

風が海を撫で、岸にぶつかったのだろうか。

見えないのに、目の奥で波が揺れている。

 

石が敷き詰められた道の中央に、細い水路のような溝が続いている。

そこに溜まった水が、わずかに震えていた。

ひとつ、ふたつと、波紋が広がり、ゆるやかに闇を吸い込むように沈んでいく。

ふと、足元に影が差した。

雲が太陽を隠したのではない。空には雲ひとつなかった。

 

石垣の影が踊っていた。

音もなく、揺れながら。

 

衣擦れの音が、地を這うように近づき、また遠のいていく。

誰かが歩いているのではない。

誰もいない場所に、残された記憶だけが舞い戻ってきたようだった。

ひとつの拍を刻むたび、空気がすこしだけ澄む。

日差しがまだ落ちきらないのに、世界はまるで夜の縁に立っているようだった。

 

坂を抜けた先に、広場のような空間が現れた。

中心には、なにかの儀を終えたような静けさが漂っていた。

石の敷かれた地面に、色とりどりの布の切れ端が散っている。

それらは風に舞い、まるで命を与えられたかのように踊っていた。

ひとつひとつが、過ぎ去った誰かの祈りのかけらのようだった。

 

木の柱が、いくつも立っていた。

枝は落とされ、滑らかに磨かれている。

その一本一本に、細い布が巻きつけられ、風に乗ってはためいていた。

誰かがそこに立ち、腕を広げ、風とともに舞ったのだろう。

舞いながら、言葉ではない哀の詩を編み、それを空へと手渡していったのだろう。

 

足元の石が、ひんやりとしていた。

熱を持っていたはずの大地が、ふいにその体温を失ったように、冷ややかだった。

ひざを曲げて、指先でその石を撫でる。少し濡れている。

汗ではなかった。

太陽の光は落ちていなかったのに、空気が夜のような深さを湛えている。

 

遠くから、再びあの音が聞こえてくる。

跳ねる音ではない。響く音でもない。

ただ、流れる音。

 

流し踊り——

その言葉が、どこからか湧き上がる。

 

誰かの記憶か、土地の記憶か。

数えきれぬ足音が、いくつもの夏を通り抜けて、まだこの場所に残っている。

 

その音に、まぶたの裏が熱くなる。

理由はわからない。

ただ、ここにいるということが、長い旅路のなかで初めて、ひとつの終わりのように感じられた。

 

そして、同じ数だけ、始まりの気配が滲んでいた。

 

あの踊りが、どこから始まり、どこへ終わったのか、それを知る者はもう誰もいないようだった。

 

ただ風が記憶していた。

布の揺らぎ、足裏の砂の感触、手のひらに乗る熱、眼差しのなかに燃え尽きたものたちの静けさ。

 

広場の奥へと進む。

足元には赤、青、墨のような色をした小さな玉石が交じって敷かれていた。

踏むたびに、わずかに沈む。声をあげないままに、土地が呼吸している。

重なった時間が、そのまま大地の下に沈んでいるようだった。

 

柱と柱のあいだをすり抜け、少し奥まった場所へ。

そこには低く、幅の広い石の段が設えられていた。

ひとりが座るのにちょうどいい高さ。

手をつき、そっと腰を下ろすと、石の冷たさが衣を抜けて、骨へと届く。

耳をすます。あの音が、まだ続いている。

 

地に伝わる微細な振動が、かすかに背を揺らした。

 

——流し踊り。

 

形ではなく、流れ。

輪ではなく、道。

 

踊り手は、一処に留まらない。

踊りながら、歩く。風とともに、日とともに、揺られながら進む。

誰かの死を悼み、誰かの悲しみに寄り添いながら、土地を渡っていく。

そうして、哀の詩が、ひとつまたひとつと、波のように舞い継がれていく。

 

その舞は、見る者の心ではなく、土地の記憶に刻まれるのだ。

だから、目には見えずとも、感じられる。

 

指先に、布の切れ端が触れた。

風に乗って、目の前に舞い降りたそれは、驚くほど軽く、しかし色褪せてなお鮮やかだった。

濃い群青と、夜明け前の白を溶かしたような色合い。

糸のほつれた端を指に巻くと、かすかに塩の香りがした。

 

ふと、広場の端に、踊る影が見えた。

ひとり。

静かに、確かに、そこにいた。

 

腕がゆるやかに開かれ、布が空に解けていく。

足取りは、まるで水面を歩くよう。

音を立てずに、けれども確かに、拍を刻む。

輪を描かず、直線を引かず、ただ風のように動いていた。

 

やがて影は、柱と柱の間をすり抜け、石畳の道へと戻っていく。

その背に、言葉はない。ただ、滲むような余韻が残されていた。

 

立ち上がる。

まだ、身体は熱を帯びたまま。

布切れを握りしめたまま、一歩、また一歩と歩みを進める。

石の道の先へ。誰かがかつて通ったのと同じ足取りで。

 

音はもう遠くにある。

 

けれど、耳の奥には残響があった。

 

それは風の音に似て、潮騒の気配を帯びていた。

どこまでも続く、静かな哀しみ。

だが、その哀は、決して重くはなかった。

誰かの痛みを受け取り、また誰かへと手渡していくような、終わりのない祈りだった。

 

歩くたび、地に溶け込んでいくような感覚があった。

身体の輪郭が、風と、土地と、空と、ひとつになっていく。

 

そして気づく。

この旅は、終わってなどいない。

ただ舞が、次へと手渡されたのだと。

次の石の道へ、次の影へ、次の哀へ。

 

ひとつの詩が、また、始まる。

 

波のように、どこまでも静かに。




振り返っても、そこにはもう舞う影はなく、音も消えていた。
ただ、胸の奥にひとすじの余韻だけが残っている。それは音でも言葉でもない。
熱でもなく、冷たさでもなく、ただ「在った」という確かな感触。

風に運ばれ、海にほどけ、また誰かの足元で始まる。

そんな記憶のような踊りが、この土地には今も静かに息づいている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。