泡沫紀行   作:みどりのかけら

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ひとつの季節が、静かに胸の奥に降り積もることがある。
それは、記憶ではなく、夢でもない。
風に揺れた布の端や、誰かがこぼした小さな音、そんな、名もなき瞬間のなかにひそやかに息づくものだ。

ある夏の日、音と影が交錯する街を歩いた。
祭とは、誰かの祈りがかたちになったものかもしれない。
その祈りのゆくえに、足を止めて、耳を澄ませた。

あの時、確かに見えた光がある。
聞こえた音がある。
それを忘れぬように、ただ綴った。


0137 神々が渡る絢爛の城塞行列

鈍くあたたかな石畳が、裸足の裏に夏を染み込ませる。

曇天の向こうで雲が息を潜めるように漂い、空気は湿りながら、どこか緊張を孕んでいた。

 

軒下に吊るされた幾千の布が、揺れていた。

それは花のようで、旗のようで、なにかの記憶の切れ端のようにも思えた。

縫い重ねられた模様は、焔を掲げる獅子や、水を蹴って翔ける鹿、星を編む娘たち。

手で染められ、手で縫われ、手で吊るされた色彩が、風にほどけて、天に向かって解けてゆく。

 

どこかで太鼓の音が響いていた。

遠いようで近く、深い森の底で鳴っているような音。

心の内側の水面に波紋を落とすような、低く湿った音だった。

 

人々の足が、土に描かれた目に見えない環をゆっくりと巡っていく。

幼子の手に握られた小さな扇には、金の星が一つ、斜めに描かれていた。

その星は、夏の高みに浮かぶものよりも柔らかく、揺れていた。

風を知らぬように見えて、しかしたしかに、風とともにあった。

 

楼のごとき曳き物が、ゆっくりと角を曲がる。

その背には、幾重にも組まれた柱と梁、金の縁飾り、緋の幕、飾り房。

かつて火を司ったもの、波を抱いたもの、そして、天から墜ちたものたちの姿が、木彫りとなって列をなしている。

 

けれど、目を凝らして見つめれば、どれもがどこか懐かしい。

それは、昔見た夢の残り香のように、あるいは忘れ去られた祈りのかたちのように。

 

ひとつの曳き物には、仮面をつけた面差しが三つ。

笑い、怒り、眠る。

そのいずれもが、同じ表情に見えた。

静かに、ただ前を見据えていた。

 

足元の砂利が、歩みにあわせて微かに鳴る。

その音が、太鼓の間を縫って響いた。

誰のものとも知れぬ足音が、石に記憶を刻みつけてゆく。

 

水を汲む女たちのそばを過ぎる。

桶に映る空は、すこしだけ青を取り戻していた。

その水面に、楼の飾りと、空を泳ぐ絹布が逆さに映る。

いまは誰も知らぬ歌の旋律が、喉をすべりそうになって、すぐに消えた。

 

ある門の傍に、柳があった。

しだれた枝が風を孕み、銀の糸のようにふるえていた。

その下で、誰かが祈っていた。

掌を合わせて、ゆっくりと息を吸い、吐いていた。

指先からこぼれたものが、ひとつ、石に落ちて砕けた。

水ではなかった。音もしなかった。けれど、はっきりと、砕けたのだった。

 

そして、ふたたび太鼓の音。

今度は、深い、腹の底を叩くような響き。

天地が交差する場所の、もっと奥から響いてくるような音。

 

そのとき、空からひとしずく、雨が降った。

すぐに止んだが、その一滴は頬に触れて、熱を奪った。

雨であったと同時に、何かの啓示のようでもあった。

 

風の巡る方角に顔を向けると、

遠く、次なる曳き物が現れるのが見えた。

 

その上に立つのは、双角を戴いた者――

獣か、神か、人か。

 

いや、そのいずれでもない。

けれども、なにかとても大きなものが、そこには確かに宿っていた。

 

足元の草が、音もなく押し分けられていく。

その感触がふいに肌に触れ、一瞬だけ、記憶ではない何かが脳裏を掠める。

 

曳き物が近づくにつれ、空気が少しずつ金の粒子を孕んでゆく。

陽光ではない。火でもない。

けれど、そこには熱があり、光があった。

 

その光のなかで、またひとつ、仮面がこちらを向いた。

 

その目は、誰かを見ていた。

それが誰かは、まだ分からない。

 

仮面の奥にある眼差しは、こちらを見つめていながらも、どこか遥かを視ていた。

記憶の奥に棲む夢か、あるいはまだ訪れていない季節か。

その双眸が捉えるものは、いま、ここではなかった。

それでも、ひとしずくのまなざしは確かにこの身を貫いて、静かに揺さぶった。

 

その曳き物の背には、天蓋のように広がる織布が張られ、

その下で幾人もの者が舞を舞っていた。

腕は鳥の羽のようにしなり、足は音を立てず、ただ風のかたちだけを描いていた。

 

舞は、やがて時の輪郭を歪めてゆく。

笛の音が加わり、空気の中に細い銀糸を引くように旋律が溶けた。

その音は、耳で聴くというより、皮膚に染みてくるようだった。

衣が揺れるたび、絹の裾が空を掠め、その影が地に落ちるたび、草がひとときだけ光った。

 

どこかで木の実が落ちる音がした。

その小さな響きすら、今日という一日の織目に縫い込まれていく。

 

列の最後尾に連なる曳き物は、まるで静かな山のようだった。

何も語らず、何も動かず、けれど、見る者の奥にある何かを照らしてしまうような静謐。

装飾は控えめで、ただ古びた木の肌が露わにされていた。

その肌に刻まれた無数の傷が、まるで語り部のように沈黙していた。

 

道の両脇には、手を合わせる者、膝を折る者、ただ見つめる者。

彼らの眼差しもまた、言葉では語れぬ祈りを抱いていた。

あるいは、それが祈りであることすら知らずに、ただ目の前に現れるものへ心を差し出していたのかもしれない。

 

ある少女の手には、蝋で固めた花があった。

その花は、一度も咲いたことのないまま、時間のなかに封じられた花だった。

けれど、その沈黙のなかにこそ、確かな熱が宿っていた。

 

行列の音が、少しずつ遠のいてゆく。

山に向かうかのように、影が長くなっていく。

空はすこしだけ色を変え、夕暮れへと傾きはじめていた。

 

石の一つが、光を受けてほのかに赤く染まった。

その赤は、曳き物の房の緋とよく似ていた。

けれど、あれほどの華やかさではなく、もっと柔らかく、夕焼けに溶ける直前のような、淡い色だった。

 

ひとり歩く。

誰もが行列を追うわけではない。

誰もが見送るわけでもない。

それでも、歩みは自然とそのあとを辿っていた。

 

踏み締めた土の柔らかさ。

肩に触れる風のぬるさ。

すれ違う影の、わずかな温度。

 

それらすべてが、この日、この時、神々が渡った確かなしるしとなっていた。

 

誰も叫ばず、誰も喚かず、ただ静かに、通り過ぎていっただけのこと。

けれど、その余韻は地を、空を、心を満たしていた。

 

どこかで、再び笛の音がした。

それは遠く、けれど確かに届く音だった。

誰かがまだ歌っているのだろう。

あるいは、あの仮面の誰かが、もう一度だけ振り返ったのかもしれない。

 

見上げた空に、一番星が瞬いていた。

昼と夜がすれ違う、その刹那の灯りだった。

 

音は遠く、光は近く、風はやさしい。

すべてが、今、この時に重なっていた。

静けさの奥で、何かが確かに、目を覚ましはじめていた。




すべてが通り過ぎたあとの静けさに、いちばん深く満ちているものがある。

喧騒の名残、光の記憶、土のぬくもり。
それらが空気に溶けて、ひとつの輪郭をなしてゆくとき、ようやく気づく。

あれは何かを見せるためのものではなく、何かを目覚めさせるための、ただの通過だったのだと。

しばらく耳に残っていた音も、気がつけば静寂のなかに還っていた。
けれど、その静けさこそが、最も雄弁に語っていたように思う。
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