泡沫紀行   作:みどりのかけら

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その森に入ると、空気が変わる。

光は柔らかくなり、音は遠ざかり、風は語りかけるように枝を鳴らす。

ここでは、時間もまた、生き物のように歩いている。

私は足を踏み入れる。
まだ誰の名前もついていない、静かな緑の回廊へ。


0014 森の精霊道

道は細く、土は湿っていた。

 

朝方に降った霧がまだ地を這い、

足元を白く濁らせている。

 

そこに落ちた落葉が、深い紅と褐色を混ぜ、

まるで絵の具を溶かしたような色合いを見せていた。

 

 

 

森の奥へ進むほどに、光は減っていった。

 

だが不思議と暗くはなかった。

むしろ、目が慣れてくるにつれて、

木々の皮膚に宿る苔の淡い光や、

湿った岩肌に映る揺れる葉の陰が、

光そのもののように感じられた。

 

 

 

ひとつ、またひとつと、

小さな音が背後に消えていく。

 

枝を踏んだ音か、風に揺れた草の音か。

 

それすら定かではない。

 

ただ、森がこちらの気配に気づいたのだということだけは、

なぜだか確かに感じ取れる。

 

 

 

大きな岩の裂け目をすり抜け、

木の根が絡み合う急な坂を越える。

 

斜面に沿って咲く白い花々が、

ひとつ、またひとつと風に揺れ、

まるで道を示すように瞬いた。

 

 

 

そのとき、不意に霧が晴れた。

 

樹々の間から差し込む光が広がり、

空中に細かな粒子を浮かべた。

 

それは、無数の微生物でもなく、塵でもなく、

精霊の残した記憶のようだった。

 

 

 

私は立ち止まり、呼吸を整える。

 

風が音を運んできた。

 

遠くで水の流れる音がする。

それは川の音か、それとも地下に眠る雪の融ける声か。

 

 

 

苔むした倒木をまたぎ、

大木の幹に掌を置く。

 

冷たく、ざらついた感触。

その中に、何百年という歳月が眠っている。

 

この森の中で時間は螺旋のように積み重なり、

同じ葉は二度と落ちず、同じ光は二度と届かない。

 

それでも、同じ風がすべてを包んでいく。

 

 

 

しばらく進むと、

道は突然ひらけた。

 

小さな丘の頂に立ち、見下ろす。

 

赤、黄、橙、深い緑――

それぞれの色が混ざり合いながらもぶつからず、

まるで互いの存在を尊びながら、

静かに隣り合っていた。

 

 

 

木々の枝先が風に震えると、

そこから色が剥がれて空へ舞い上がった。

 

空気そのものが紅葉しはじめたように感じられた。

 

その一瞬、私は自分の影が

葉と一緒に空中にほどけていくような錯覚を覚えた。

 

 

 

耳元で何かが囁いた気がした。

 

それは風の音か、木の軋みか。

 

わからない。

 

だが、どちらでもよかった。

どちらであっても、それはこの森の声だったからだ。

 

 

 

私は、再び歩き出す。

 

来た道とは違う方向へ。

 

引き返すことはない。

 

この道には、名も、地図もない。

ただ季節と光だけが道しるべとなる。

 

 

 

ふと、背後を振り返った。

 

そこにはもう霧が戻っていた。

 

来た道は見えない。

けれど、確かに歩いてきたと知っている。

 

それだけでよかった。

 

 

 

森は何も語らない。

 

だからこそ、語りすぎた私の心を

そっと静めてくれたのだろう。

 

沈黙の中にだけ宿る真実がある。

 

私はその静けさに身を委ね、

再び森の奥へと歩を進めた。




あの森には、声がなかった。

けれども、葉の揺れ、土の匂い、光の温度――
すべてが確かに語っていた。

名もなく、形もなく、けれど存在するもの。

それに触れたとき、私は歩くという行為そのものが
祈りになるのだと知った。

静けさこそが、旅の果てに在るものなのだ。
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