泡沫紀行   作:みどりのかけら

140 / 1188
木々の影が長く伸びる季節になると、ひとつの場所が思い出される。
それは、ある秋の日、ただ静かに歩き、耳を澄ませ、目に映るものすべてを胸の奥に沈めた時の記憶だ。

風の音、葉の手触り、石の冷たさ、朱のまなざし。
言葉にならなかったすべてが、いまもそこにある。


0140 朱に染まる武神の聖域

朱に染まる武神の聖域

 

風が落ち葉を撫でていく音が、空の高みに吸い込まれてゆく。

踏みしめるたび、足元から音もなく秋がほどけてゆく。

 

緩やかな坂を登る道は、左右に古木を連ねていた。

幹に刻まれた幾重もの皺が、数えきれぬ歳月の重なりを囁いている。

ひとつひとつの枝が空を抱くように広がり、その間からこぼれる陽の光が、まるで琥珀を砕いたように揺れていた。

 

歩を進めるほど、空気の色が深まる。

赤、橙、金、そして褪せた緑。

すべてが穏やかな翳を帯び、どこか遠い記憶のなかの景色のように、輪郭が霞んでいく。

かすかに湿った落ち葉の香りが、鼻先をくすぐった。

 

苔むした石段が見えてくる。

無数の靴音を受け入れてきたそれは、ところどころ欠け、時に斜めに歪んでいる。

それでも不思議と歩幅に馴染むのは、己の歩みが、遥かな昔から続く流れに、静かに繋がれているからだろうか。

 

石段の上に、風を受けて揺れる布があった。

朱に染まったそれは、あまりに鮮やかで、しかしどこか古びた温もりを帯びている。

擦れた端が語るように、それは季節を幾度も超えてここに在った。

 

陽が傾きかけ、木々の影が長く伸びていた。

風がやむたび、森の奥の静けさが、全身を包み込んでくる。

音のない場所には、言葉よりも多くの声がある。

葉擦れの沈黙、土の冷たさ、誰かの祈りの名残り。

 

赤く塗られた門は、ただそこに立っていた。

威圧することなく、迎えることもなく。

微かな朱が、夕映えに溶けてゆく。

その柱のひとつに、手をそっと置くと、かすかな温もりが掌に伝わってきた。

陽の名残か、それとも遠い誰かの手の記憶か。

 

奥へと続く参道には、まだ人の気配がない。

薄く積もった落ち葉をかき分けるようにして、歩を進める。

右手に流れる水音が、木立の向こうから聞こえてくる。

澄んだその音が、内側の静けさにゆっくりと沁み込んでくる。

 

ひとつの拝殿が見えた。

朱と黒の対比が、翳りのなかで重々しく立ち上がる。

柱の彫刻には、獣とも神ともつかぬ姿が刻まれ、その目がどこか遠くを見ていた。

屋根の先端が空に突き刺さるようにそびえ、そこに絡みつく蔦が、秋の色に染まりながら、静かに呼吸していた。

 

何も祈らず、ただそこに立つ。

目を閉じると、鳥の羽ばたく気配が近くに過ぎた。

風が頬を撫で、肌を冷たく打つ。

呼吸の音がやけに大きく、体内で反響していた。

 

ここは、かつて誰かが剣を掲げ、何かを護った場所なのだろうか。

 

朱に染まるこの聖域は、いまもなお、その記憶を地に刻みながら、静かに息づいている。

葉の落ちる音にさえ、言葉を感じてしまうのは、秋が心の襞をすこしだけ、柔らかくするからかもしれない。

 

石造りの獅子が、入口の左右に並んでいた。

口を開いたものと、閉じたもの。

そのあいだを抜けると、いっそう空気が凛とし、肌を刺す冷たさが増す。

そこには、誰もいなかった。

鳥の声も止み、風も音を失い、ただ、時間だけが静かに降り積もっていた。

 

敷き詰められた石畳の上には、落ち葉が幾重にも舞い降りていた。

赤と金と土の色が混じり合い、それがひとつの織物のように眼下に広がっていた。

踏みしめるたび、乾いた音が小さく響く。

音はすぐに空へ溶け、次の沈黙がすぐ後にやってくる。

 

社の傍らには、朽ちかけた木の長椅子があった。

苔に縁どられたその座面に腰を下ろす。

背に当たる陽の温もりが、ひとときの安らぎを連れてくる。

風はいつしか戻り、木々を渡りながら、淡い旋律を奏でていた。

 

額に触れた指先に、かすかな湿り気が残る。

歩き続けた体は、内から熱を帯びていたが、それでもこの場に漂う冷気は、感覚の輪郭をしっかりと際立たせる。

ここに身を置いているという確かな感触が、言葉にならぬまま胸の奥に灯る。

 

立ち上がり、社の裏手へと歩を移すと、杉の巨木が天へと聳えていた。

その根は土を裂き、広く広く地を這っている。

まるでこの地の記憶を掬い上げるように、静かに、確かに、張りめぐらされていた。

 

その根のそばには、小さな水溜りがあった。

落葉が一枚、そこに浮かんでいる。

水面に写るのは、空と木々、そして自身の影。

だがそれらは揺れて、定まることなく移ろっていく。

手を伸ばしても、何も掴めない。

掴もうとするたび、水面は波紋を描いて遠ざかる。

 

再び社へと戻り、最後にひととき、朱の柱を見上げる。

そこに残された爪痕のような彫り込みが、目に入る。

意図されたものか、あるいは時のいたずらか、それはどこか獣の爪跡に見えた。

思いがけず、胸の奥に重く沈むものがあった。

理由はわからない。

ただ、その痕が語るものの気配に、言葉を持たぬまま、立ちすくんでいた。

 

やがて、陽が森の端へと傾き、朱の色が深い紅へと変わりゆく。

門をくぐり、ふたたび石段を下り始める。

音もなく、すべてが後ろへと遠ざかる。

そのひとつひとつが、内側に沈殿し、言葉にならぬまま残りつづける。

 

振り返らない。

風が肩を押し、道はふたたび続いていく。

秋の色を纏いながら、静かに、静かに歩みは進む。

 

音なき朱の記憶だけが、胸に灯をともしていた。




振り返れば、あの場所に立っていた時間は、ほんの短いものだったのかもしれない。
けれども、その静けさは、長く心にとどまり続けている。

紅葉が散るたび、あの朱の色がまぶたに浮かぶ。
何も語らず、何も奪わず、ただそこに在るということの確かさを、ふと思い出すように。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。