泡沫紀行   作:みどりのかけら

1401 / 1407
白い息がほどける朝、まだ名も持たぬ道を選んで歩き出した。
足裏に伝わる冷えは鋭く、けれどどこか懐かしい温度を秘めていた。


風は低く唸り、遠くからかすかな甘い気配を運んできた。
それは記憶の奥に触れ、形を持たぬまま静かに揺れていた。
行き先を問う声もなく、ただその匂いに導かれていた。


薄く積もる雪は、踏むたびに柔らかな音を残した。
その響きは、これから触れる何かを予感させるように静かだった。



縫い継がれし宵の地図
1401 霧に隠れた聖なる蔵の秘密


白く曇る息の先に、かすかな甘い匂いが漂っていた。

踏みしめる雪は細やかな粒となり、足裏に静かな抵抗を残した。

 

 

低く垂れた空の下、木の戸が重く閉ざされている気配に導かれた。

指先で触れると、冷えきった木肌は硬く、微かな湿りを帯びていた。

その奥に潜むものが、音もなくこちらを見ているように感じた。

 

 

戸口の隙間から、白い息のような霧がゆっくりと滲み出ていた。

 

 

中へ踏み入れると、冷気は柔らかく、肌を包むように変わった。

足元の土は湿り、わずかに沈む感触が歩みを遅らせた。

遠くで水の滴る音が、時を刻むように響いていた。

暗がりの奥に、幾重にも重なった香りが静かに息づいていた。

 

 

壁に触れると、冷たい石のざらつきが掌に残った。

その粗さの奥に、長い年月が沈んでいるように思えた。

 

 

薄い光が差し込む場所では、白い粒が宙に浮かび続けていた。

それは雪とも霧ともつかず、ゆるやかに形を変えていた。

目を凝らすほどに、その曖昧さが心を深く沈めていった。

 

 

足音が吸い込まれるように消え、空間はさらに静まり返った。

 

 

並べられた大きな器に近づくと、木の縁がしっとりと手に馴染んだ。

内側から立ちのぼる温もりが、冷えた指先をゆるやかに解いた。

甘く濃い香りが、胸の奥へとゆっくりと満ちていった。

その気配は、まるで眠っていた記憶をそっと揺らすようだった。

 

 

奥へ進むほど、空気は重く、密やかな気配を帯びていった。

呼吸は深くなり、身体の内側まで静かに染み込んでいった。

 

 

天井から垂れる水滴が、一定の間隔で落ち続けていた。

その一滴ごとに、時が編まれていくように感じられた。

冷たい響きは、耳の奥でやわらかくほどけていった。

 

 

視界の端で、霧がゆっくりと形を結び、また崩れていった。

 

 

その揺らぎの中に、かすかな光が滲み、淡く広がっていた。

光は触れれば消えそうに弱く、それでも確かにそこにあった。

指を伸ばすと、冷たい空気だけが静かにすり抜けていった。

触れられぬものの温もりが、なぜか胸に残り続けた。

 

 

来た道を振り返ると、足跡はすでに曖昧に溶けていた。

ここに至るまでの時間さえ、霧に縫い込まれていくようだった。

 

 

外へ戻ると、空気は再び鋭く、頬を刺すように冷えていた。

しかしその冷たさは、どこか柔らかく感じられた。

胸の奥に残る香りが、見えない層となって息を包んでいた。

 

 

遠ざかるにつれ、背後の気配は静かに閉じていった。

それでも足裏には、湿った土の記憶が確かに残っていた。

 

 

白い霧の記憶は、歩みを進めるほどに薄れていくのではなく、むしろ内側へと沈み込んでいった。

背後に閉じたはずの気配が、呼吸のたびに微かに立ち上がり、胸の奥で静かに輪郭を保っていた。

風が頬をかすめるたび、その名残だけが遅れて追いかけてくるようだった。

 

 

指先の冷たさはすでに消えているはずなのに、どこかに湿りを含んだ感触だけが残っていた。

歩幅に合わせて、その感触は確かさを増したり、ふとほどけたりを繰り返す。

現実と遠い場所の境界が、ゆっくりと溶け合っていくような感覚だった。

 

 

やがて視界の奥に、曖昧な白さが再び滲みはじめる。

それが行き先なのか、あるいはただの残響なのかは判然としないまま、ただ足は自然とその方へ向かっていく。

終わりと始まりの区別さえ、静かに曖昧になっていった。

 




歩みを離れたあとも、あの冷えは指先にかすかに残っていた。
触れたものすべてが、時間の奥へと沈んでいく感覚が続いていた。


振り返らぬまま進んでも、背後の気配は消えきらなかった。
それは霧のように淡く、けれど確かな重みを持って寄り添っていた。
胸の奥に残る香りが、静かに呼吸と重なっていた。


やがて風がすべてをさらい、足跡も痕跡も消えていった。
それでも内側に縫い留められたものは、ほどけることなく残っていた。
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