泡沫紀行   作:みどりのかけら

1403 / 1409
まだ光の届かぬ宵の端で、私は縫い目のほつれた地図をひらいた。
そこには名もない青と、触れればほどけそうな余白が広がっている。
指先でなぞるたび、見えない潮の気配がかすかに滲み出した。


歩き出すと、乾いた土の下にわずかな湿りが隠れているのがわかる。
足裏に伝わるその気配は、まだ見ぬ水辺へと静かに導いてくる。


笹の葉がこすれる音が、宵の布に細い針を通すように響いていた。
その音を追ううちに、まだ形を持たぬ青が胸の奥でゆっくりと息づきはじめる。
やがて私は、その気配に呼ばれるように歩みを深めていった。



1403 波間に眠る碧の精霊たち

潮の気配がまだ見えぬ朝、足裏にまとわる砂の湿りだけが、遠い水辺の在り処を教えていた。

風は柔らかく、笹の葉の擦れが細い糸のように耳をくすぐる。

 

 

陽は高くないのに、肌に触れる光はすでにぬるく、薄い塩の匂いが息の奥へ沈んでいく。

指先で拾った小石は丸く、長く撫でられてきた時間の静けさを宿していた。

その冷たさが、胸の奥に沈めていた思いをそっと持ち上げる。

 

 

水際に近づくにつれ、音がほどけるように増えていく。

さざめきは繰り返しながらも同じ形を持たず、耳の奥で淡くほどける。

 

 

ひときわ透き通った青が、波間の底にひそむ影をやわらかく包んでいた。

それは生き物の気配にも似て、触れれば消える夢の縁のように揺れている。

視線を落とすたびに、何かがこちらを見返している気がして、まばたきが遅くなる。

 

 

足首まで水に浸すと、ひやりとした感触が骨の内側へ染みていく。

小さな泡が触れては消え、そのたびにかすかな震えが残る。

 

 

笹の影が水面に揺れ、切れ切れの緑が青の奥へ溶けていく。

その重なりが、忘れていた景色の断片を縫い合わせる針のように思えた。

歩みを止めるたび、縫い目はゆるやかに広がっていく。

 

 

波が寄せるたび、砂はわずかに沈み、かかとが柔らかく抱えられる。

その頼りなさが心地よく、体の重さを少しだけ預けたくなる。

 

 

遠くで崩れる水の響きが、胸の内側に低く残り続ける。

それは言葉にならないまま、ただ重なり、ほどけてはまた寄せてくる。

 

 

掌ですくった水はすぐにこぼれ、残るのはわずかな冷えと光だけだった。

その儚さが、ここに在るものすべての形を一瞬だけ確かなものにする。

指の間を抜けた滴が、記憶の隙間を静かに満たしていく。

 

 

青の奥に潜む気配は、名を持たぬまま確かに息づいているようだった。

それに触れたわけでもないのに、胸の奥がかすかに応える。

 

 

乾いた唇に風が触れ、塩の味がかすかに広がる。

それは遠い記憶の端に似て、思い出す前に消えてしまう。

それでも舌の上に残る余韻が、確かにここへ来た証のように残る。

 

 

足を引き上げると、水はすぐに離れ、砂が軽く肌にまとわりつく。

その重みはほんのわずかで、すぐに乾き、跡だけを残していく。

 

 

笹のざわめきが少し強まり、影が細かくほどけていく。

青はゆっくりと深さを失い、ただの光へと還っていく。

 

 

振り返ると、歩いてきた跡はすでに曖昧で、境目が消えかけている。

それでも足裏に残る感触だけが、確かな道筋として残っている。

そのぬくもりを頼りに、また一歩だけ前へと進む。

 




青はすでに遠ざかり、足元には乾いた砂の軽さだけが残っていた。
それでも歩くたび、かすかな冷えが体の奥でひそやかに揺れている。


指先に触れたはずの水の感触は、確かな形を持たぬまま残り続ける。
まぶたの裏でほどける光は、波間に眠る気配の名残のように揺れていた。
それを確かめることもなく、ただ静かに抱えたまま歩いていく。


やがて宵は再び縫い合わされ、地図の余白はゆるやかに閉じていく。
それでもどこかに残された青の断片が、次の歩みをそっと促していた。
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