泡沫紀行   作:みどりのかけら

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雪の降る日、静かに呼ばれるようにして向かった先があった。
地図にも言葉にも残らない場所で、ただ足の裏と風の匂いだけが導いてくれた。

冬の山は声を失っていたけれど、その沈黙の奥には、たしかに何かが息づいていた。
岩と雪と、ひとつの祈りのようなかたち。

それを見つけたとき、言葉では追いつけない感情が、胸の奥に静かに降り積もっていた。


0142 岩に抱かれし静寂の祈り

斜面をなぞるように踏み締めた雪が、きしりと鳴いた。音はすぐに消え、白の帳に吸われていった。灰色の空はひらかれた硝子のように重く、息をひとつ吐けば、冬の気配が細く立ちのぼる。

 

木々は皆、声をひそめていた。葉を落とした枝のひとつひとつが凍り、細く尖った指先のように空をなぞっている。風は梢を過ぎるたび、鈴の音のような震えを残してゆく。

 

遠くから、ぽたり、と何かが落ちた音がした。氷の雫か、あるいは岩肌に残された溶けかけの雪か。音の主を確かめる術もなく、ただ足元を見つめ、次の一歩を選ぶ。

 

岩の肌は冷たく、歳月を重ねた皺のように苔を纏っていた。冬の乾きがその色を褪せさせている。けれどもそのひとつひとつが、確かに生きている。じっとそこにあるということの、揺るがぬ意志のようなものを感じた。

 

石段は風に削られ、雪に埋もれ、ところどころ輪郭を失っていた。けれどもその奥に何かがあると、身体のどこかが覚えている。

 

進むたび、時間の気配が遠のいていく。

 

谷に沿って生えた杉が、まるで永遠に続く眠りの帳のように道を覆っている。陽が射すこともなく、影が色を濃くし、白はなおさら白く、黒はより深く沈んでいる。

 

右手に、小さな沢が流れていた。水は細く、氷の鱗を纏いながら、すでに水であることを忘れかけているようだった。

 

指先を水にかざす。風よりも冷たく、肌よりも淡く、触れたはずの感覚がすぐに消えていく。ここでは、温度すらも息を潜める。

 

そこに、石の祠があった。雪に埋もれかけながらも、確かにそこに座し、岩の懐に抱かれるように佇んでいた。

 

祠の前には小さな灯台のような形の石があり、吹き込む風の通り道となっていた。風が石を撫でるたび、低く、声ともつかぬ音がかすかに響く。

 

その音はどこか、祈りに似ていた。

 

誰に向けてでもなく、何かを求めるわけでもない。ただ、そこにあるものが、そこにあるものへと静かに応えるような、言葉にすらならないやりとり。

 

足元の雪が深くなっていた。身をかがめて祠に触れる。石の冷たさが掌から腕へ、背へとしみていく。けれどその冷たさは、不思議と拒むものではなかった。

 

内に籠もるものではなく、何かを吸い取るようでもなく、ただそこにあることを伝えてくる。凍える掌の上に、沈黙がそっと降り積もる。

 

音のない時間が、風とともに流れていった。

 

やがて、細い石段が現れた。苔と雪に覆われ、ほとんど見えないほどに朽ちている。けれど、その先に続く気配が、どこか懐かしかった。

 

石段を登るたび、体の奥にひとつずつ響く音がある。骨の軋む音ではない。風の通り道を踏むたびに、かつて誰かが同じように通った記憶が、雪の下からふと立ち上がるようだった。

 

ときおり、背中に誰かの気配を感じた。ふり返っても、何もいない。ただ、木々と岩と、沈黙だけがそこにいた。

 

けれどその沈黙こそが、この地の言葉なのだと思った。

 

先ほどの石段を登りきると、ひときわ大きな岩が、まるで眠る獣の背のように道を塞いでいた。風はその背をまわりこみ、ふたたび谷へと抜けていく。岩の表面には、ひび割れたような線が縦横に走っており、それらの隙間に薄く凍りついた雪が音もなく寄り添っていた。

 

岩の向こうに、ぽっかりと空間がひらけていた。雪に沈むその地面には、かすかに踏み跡のような凹みが連なっている。もう何年、あるいは幾世も経たであろう、誰かの歩いた記憶の影。

 

目を凝らすと、その奥に低い庇のような影があった。岩陰に寄り添うように、木と石を組んでつくられた小さな祈りの座。その中に、ひとつの像が置かれていた。

 

像の輪郭は雪と苔に覆われ、原型をとどめていない。顔は風に削られ、目元も、口元も、ただひとつの穏やかな沈黙となっている。

 

けれどその沈黙が、あまりに静かで深く、胸の奥に澄んだ水を落とすような感触を残す。

 

冷たい石に腰をおろし、息を整える。空を見上げれば、淡く灰色の光が降っていた。雲の向こうに太陽があるのかも分からず、それでも、空が空であることに変わりはないと、雪を透かして伝えてくる。

 

指先を組むと、骨がこすれる音が小さく鳴った。凍てつく空気の中で、それすらも鮮やかに聴こえる。

 

足元に置かれた、割れた杯のような器の中に、冬の葉がひとつ落ちていた。枯れてはいるが、なおその形をとどめている。風に吹かれて運ばれてきたのだろう。

 

それはまるで、冬に咲いた祈りの残響のように見えた。

 

ふと、静寂の向こうからかすかな匂いが立ちのぼった。焚かれた煙でもなく、人の気配でもなく、もっと微かな、岩と木と雪とが織りなす、時の匂い。

 

ここにいること、それ自体が祈りになるような場所。何も言わず、何も求めず、ただ黙って在り続けることで、その気配に耳を澄ませるしかない。

 

身体の輪郭が薄れ、思考の音が凍りつく。

 

雪がやんだ。空気が、いっそう透明になる。

 

そのとき、足元の雪がわずかにくぼんだ。踏み込んだのは自分自身の足なのに、それすらも忘れるほど、心がひとつの静けさに溶けていた。

 

立ち上がる。

祈りの像に、もう一度だけ視線をおとす。

 

その像の眼差しが、どこか遠く、眠る星の方角を見つめている気がして、足を止めた。

 

空の彼方には、まだ光を知らぬ星があるのだろうか。

それとも、すべての眠りがそこから始まるのだろうか。

 

雪を踏みしめる音が、再び歩みをはじめる。

 

もう、声も音も要らなかった。

風と、岩と、白の世界だけが、ただ確かにそこにあった。

 

歩きながら、背に受けるその沈黙を、祈りのように感じていた。

 

胸の奥に、言葉にならない何かが静かに灯っていた。

 

それは、永い眠りの中にふと現れる

かすかな夢のようだった。




あの岩陰に佇んでいた像のまなざしを、今もときどき思い出す。
何かを語るでもなく、何かを拒むでもなく、ただ永い時のなかにじっと在り続けること。
それがどれほど深い意味を持つのかを、あの冬の空気が教えてくれた気がする。

記憶は薄れても、あの静けさだけは、いまも心のどこかで雪のように音もなく降りてくる。
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