泡沫紀行   作:みどりのかけら

1428 / 1455
朝の気配がまだ淡く残る頃、足元の土は夜露を含んでやわらかく沈む。
指先で触れた葉の表面は冷え、微かな水滴が皮膚に移る。
遠くから届く気配は形を持たず、ただ静かに呼び寄せる。


細い道は緩やかに曲がり、視界の先を曖昧に隠していく。
踏みしめるたびに土の湿りが靴底にまとわりつく。
胸の奥で何かがほどけるように、呼吸がゆっくりと深まる。


差し込む光はまだ頼りなく、影の輪郭をやわらかく滲ませる。
風が頬をかすめ、わずかな温度の変化を残して去る。
これから触れるものの重みを、まだ知らないまま歩き続ける。



1428 渓谷の底で眠る虹の涙

谷へ降りる細道は湿り気を帯び、足裏に柔らかな冷たさが伝わる。

初夏の光はまだ若く、葉の縁に触れて淡くほどけていた。

 

 

水の気配は見えぬまま近づき、胸の奥でひそやかな震えを呼び起こす。

岩肌に触れると、指先に細かなざらつきと古い冷えが残る。

遠くで落ちる滴が、時を刻む針のように響いていた。

 

 

細い風が頬を撫で、汗の気配をすくい取ってゆく。

 

 

足元の小石がわずかに動き、かすかな音が闇に吸い込まれる。

湿った空気は重く、肺の奥でゆっくりと広がる。

視界の端に揺れる影が、水の存在をほのめかしている。

その揺らぎは、記憶の底に触れるようなやわらかさを持つ。

 

 

谷の底に近づくほど、光は細く絞られていく。

掌に触れた岩は滑らかで、長い時間の流れを思わせた。

 

 

滴る水が腕に触れ、ひやりとした線を残して流れ落ちる。

耳を澄ますと、幾重にも重なる水音が静かな層をつくる。

その奥に、まだ見ぬ色の気配が潜んでいる。

 

 

足を止めると、空気がわずかに甘く変わる。

 

 

細い光が水面に触れ、淡い色がかすかにほどける。

それはすぐに消え、また別の場所に現れる。

追いかけるほど遠のく気配が、胸の奥で静かに揺れる。

濡れた岩に手を置くと、脈のような冷えが伝わってきた。

 

 

水しぶきが頬にかかり、細かな粒が肌に残る。

その感触はすぐに消えず、しばらくそこにとどまる。

 

 

光と水の交わりは、言葉にならぬ輪郭を描く。

それは触れれば崩れそうで、目を凝らすほど遠ざかる。

ただ、そこに在るという確かさだけが残る。

 

 

呼吸を整えると、体の奥まで湿り気が満ちてくる。

 

 

足先に伝わる冷えが、ゆるやかに全身へ広がる。

水音は次第に柔らぎ、耳の奥で静かにほどける。

影の重なりがほどけ、わずかな明るさが戻ってくる。

それでもなお、底に沈む色は消えずに残る。

 

 

指先に残る水の感触が、かすかな重みを持ち続ける。

それは消えゆくものではなく、静かに沈んでいくもののようだ。

 

 

振り返ると、来た道は薄い光に包まれている。

谷の奥で見た色は、もうどこにも見当たらない。

ただ、胸の奥にわずかな冷えと柔らかな余韻が残る。

 

 

歩みを進めるたびに、足裏の感覚が少しずつ変わる。

 

 

やがて風が乾きを帯び、肌に軽さが戻ってくる。

それでも、谷底で触れた冷えは、静かに内側に留まり続けている。

 

 

足元に残る湿りが次第に薄れ、土は乾いた感触へと変わっていく。

それでも指先に触れた冷えだけが、遅れて肌の奥に沈み続ける。

 

 

谷を離れるほどに、水音は遠く細くほどけていく。

耳の奥に残った響きが、かすかな余韻となって揺れ続ける。

胸の内側で、見えない波紋が静かに広がっていく。

 

 

歩みを進めるたび、空気は軽く、温もりを含み始める。

頬に触れる風は乾き、先ほどまでの重さを忘れさせる。

それでも身体の深いところで、冷えは静かに形を保っている。

 

 

やわらかな光が背に差し、影はゆるやかに前へと伸びる。

足裏に伝わる感触が安定し、道は穏やかに続いていく。

振り返らずとも、あの底に沈む気配だけが確かに残っている。

 




谷を離れても、指先にはかすかな冷えが残り続ける。
乾いた空気の中で、それだけが異質な重みを帯びている。
歩幅を整えながら、その感触を確かめるように進む。


光は次第に強まり、影は短く足元へと縮んでいく。
それでも胸の奥には、淡い色の揺らぎが消えずに漂う。
触れたはずのない輪郭が、確かに内側で形を持ち始める。


やがて風がすべてをさらい、肌には軽さだけが残る。
それでも一滴のような記憶が、静かに沈んで動かない。
振り返らずとも、その場所は確かに続いている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。