泡沫紀行   作:みどりのかけら

143 / 1190
黄金の風が吹いていた。
それは目に見えない記憶のようで、肌に触れた瞬間、かつて一度だけ見た夢を思い出す。

この季節の、その場所には、名もつかぬ揺らぎと静けさが漂っていて、しずかに歩いていれば、耳元でなにかが囁くのだ。

それが声なのか、光なのか、ただの風なのか。
確かめる必要も、答えもないまま、ひとつの風景が、心の奥へと滲んでいく。


0143 風に揺れる黄金の楽園

足もとに、湿った大地の息づかいがあった。

苔むした小さな丘を越えた先、風の道に導かれるようにして、黄金の海がゆるやかに広がっている。

 

ひとつひとつの茎は細く、軽く、陽を透かし、風が通り抜けるたび、銀のさざ波のように揺れては静まる。

何のためにここに生えているのか、誰が育てたのか、そんな問いも必要ないほどに、そこはただ在った。

 

空には雲が浮かんでいた。

厚くもなく、薄すぎもせず、空の青をやさしく撫でるような、絹のひだのような雲。

ときおり、その下を影が這い、湿原の金色を柔らかく沈めていく。

光と影とが戯れ、草々の輪郭を曖昧にしながら、またすぐにそのかたちを取り戻す。

 

遠くで、鳥の鳴き声がした。

聞いたことのない声だった。

だが、それは恐れる類のものではなく、まるで閉ざされた記憶の扉を、ひとさし指でそっと叩かれたような感触を残した。

風がその声を引き連れて、指先の皮膚の隙間まで吹き抜けていく。

しっとりとしていて、それでいて少し、夏の火種のような熱を含んでいた。

 

歩みを進めるごとに、足の裏に伝わる地面の感触が変わっていく。

時にやわらかく、沈むようでいてしっかりと支える。

時に湿り気が強く、草の合間から水脈が覗き、反射した光が天井のない神殿の柱のように、真上へと立ち上っていた。

泥に足を取られることもあったが、不思議と不快ではなかった。

濁りも冷たさも、生まれたばかりのもののように澄んでいた。

 

草の香りに混じって、甘い匂いがした。

目を凝らすと、ところどころに低く咲いた花がある。

色は淡く、まるで声をもたぬ夢のように、湿原の片隅でそっと開いている。

指先で触れると、花弁はわずかに震え、何かを語ろうとしたが、やがて静かに黙った。

 

風がまた吹く。

それは、過去から来たものではなく、未来に向かってゆくものでもなかった。

この地に永く在り続けてきた何かが、ほんの短い時間、目を覚ましたかのような風だった。

肌を撫で、耳元で通り過ぎ、背後に消えていく。

 

歩いていく。

どこまでが湿原なのか、どこからが空なのか、境界はすでにあいまいになっていた。

空と地が溶け合い、まるでひとつの風景ではなく、ゆるやかに奏でられる旋律のように感じられた。

草の揺れ、雲の流れ、足音の消える音さえ、すべてがひとつの調べだった。

 

ときおり、立ち止まり、風を待つ。

次に吹く風が、どのような光を連れてくるのか、それをただ、待つ。

 

ふいに、足元の影がひとつ消えた。

雲が割れ、初夏の光が真上から差し込んできたのだ。

黄金の草々が一斉にその方向へ首を傾け、まるで太古からの約束でも思い出したかのように、微かに色を濃くした。

足元にできた自分の影が、草の間でゆらぎながら、輪郭をほどいていく。

 

息をするたび、肺の奥まで湿った甘い空気が届く。

水と風と、草々と土とが混じり合って、名前のつけられない香りが生まれていた。

深く吸い込むと、それは体の輪郭を少しだけあいまいにしていく。

自分がどこまでを「自分」と呼んでいたのか、その境目が溶けて、草と風とが入り込んでくるようだった。

 

遠くで、水音がした。

近づくと、それは幅も深さも知れないほど小さな流れだった。

けれども水面には、空よりも深く、時間よりも遠い色が映っていた。

手を伸ばし、水に触れる。

冷たさよりも先に、その水がどれだけ長く、どれだけ静かにこの地を流れてきたのかが、掌を伝ってくる。

数えきれない花の芽をくぐり、葉の影を渡り、幾重にも揺れる光と混ざりながら、ここに至った水だった。

 

腰を下ろす。

風が草を押し、ひとつの道ができていた。

だが、それはすぐに消えた。

この地では、すべてが生まれ、すべてが消え、また戻ってくる。

確かなかたちは、どこにもない。

だが、だからこそ、何もかもが真実だった。

 

指先に、柔らかなものが触れる。

見ると、小さな虫が一匹、手の甲に止まっていた。

羽は薄く透け、複雑な模様が、陽の光を受けて光の文様となって踊っている。

払うことはせず、そのままにしていた。

虫はしばらく、指先を歩き、やがて静かに飛び立った。

 

空が、低くなる。

雲がゆっくりと形を変え、湿原の上に、大きな羽のような影を落とす。

風も、ひととき止まる。

すべてが呼吸を潜め、沈黙の中に沈んでいく。

ただ、湿原の奥で、風の通り道がふたたび開かれるのを、待っていた。

 

立ち上がる。

草をかき分け、再び足を進める。

どこへ向かうのかはわからない。

だが、ここではそれすらも、意味をなさなかった。

歩くことが、すでに風景の一部だった。

足元から、光が差し、影が伸びる。

手のひらには、まだ冷たい水の感触が残っている。

 

見上げた空の、その向こうに、ほんのわずかに眠る星の匂いがした。




風はもう、背を押すこともなくなり、光は傾き、草の色は静かに夜の音を含みはじめている。

足元に残る泥の感触だけが、そこにいたという証のように、ぬくもりを持っていた。

言葉には残らない景色だった。
ただ、それでも、胸のどこかでいまも、草々がゆれている。
あの湿原に立つたび、世界が少しやわらかくなったように感じられる。

それだけで、十分だった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。