それは目に見えない記憶のようで、肌に触れた瞬間、かつて一度だけ見た夢を思い出す。
この季節の、その場所には、名もつかぬ揺らぎと静けさが漂っていて、しずかに歩いていれば、耳元でなにかが囁くのだ。
それが声なのか、光なのか、ただの風なのか。
確かめる必要も、答えもないまま、ひとつの風景が、心の奥へと滲んでいく。
足もとに、湿った大地の息づかいがあった。
苔むした小さな丘を越えた先、風の道に導かれるようにして、黄金の海がゆるやかに広がっている。
ひとつひとつの茎は細く、軽く、陽を透かし、風が通り抜けるたび、銀のさざ波のように揺れては静まる。
何のためにここに生えているのか、誰が育てたのか、そんな問いも必要ないほどに、そこはただ在った。
空には雲が浮かんでいた。
厚くもなく、薄すぎもせず、空の青をやさしく撫でるような、絹のひだのような雲。
ときおり、その下を影が這い、湿原の金色を柔らかく沈めていく。
光と影とが戯れ、草々の輪郭を曖昧にしながら、またすぐにそのかたちを取り戻す。
遠くで、鳥の鳴き声がした。
聞いたことのない声だった。
だが、それは恐れる類のものではなく、まるで閉ざされた記憶の扉を、ひとさし指でそっと叩かれたような感触を残した。
風がその声を引き連れて、指先の皮膚の隙間まで吹き抜けていく。
しっとりとしていて、それでいて少し、夏の火種のような熱を含んでいた。
歩みを進めるごとに、足の裏に伝わる地面の感触が変わっていく。
時にやわらかく、沈むようでいてしっかりと支える。
時に湿り気が強く、草の合間から水脈が覗き、反射した光が天井のない神殿の柱のように、真上へと立ち上っていた。
泥に足を取られることもあったが、不思議と不快ではなかった。
濁りも冷たさも、生まれたばかりのもののように澄んでいた。
草の香りに混じって、甘い匂いがした。
目を凝らすと、ところどころに低く咲いた花がある。
色は淡く、まるで声をもたぬ夢のように、湿原の片隅でそっと開いている。
指先で触れると、花弁はわずかに震え、何かを語ろうとしたが、やがて静かに黙った。
風がまた吹く。
それは、過去から来たものではなく、未来に向かってゆくものでもなかった。
この地に永く在り続けてきた何かが、ほんの短い時間、目を覚ましたかのような風だった。
肌を撫で、耳元で通り過ぎ、背後に消えていく。
歩いていく。
どこまでが湿原なのか、どこからが空なのか、境界はすでにあいまいになっていた。
空と地が溶け合い、まるでひとつの風景ではなく、ゆるやかに奏でられる旋律のように感じられた。
草の揺れ、雲の流れ、足音の消える音さえ、すべてがひとつの調べだった。
ときおり、立ち止まり、風を待つ。
次に吹く風が、どのような光を連れてくるのか、それをただ、待つ。
ふいに、足元の影がひとつ消えた。
雲が割れ、初夏の光が真上から差し込んできたのだ。
黄金の草々が一斉にその方向へ首を傾け、まるで太古からの約束でも思い出したかのように、微かに色を濃くした。
足元にできた自分の影が、草の間でゆらぎながら、輪郭をほどいていく。
息をするたび、肺の奥まで湿った甘い空気が届く。
水と風と、草々と土とが混じり合って、名前のつけられない香りが生まれていた。
深く吸い込むと、それは体の輪郭を少しだけあいまいにしていく。
自分がどこまでを「自分」と呼んでいたのか、その境目が溶けて、草と風とが入り込んでくるようだった。
遠くで、水音がした。
近づくと、それは幅も深さも知れないほど小さな流れだった。
けれども水面には、空よりも深く、時間よりも遠い色が映っていた。
手を伸ばし、水に触れる。
冷たさよりも先に、その水がどれだけ長く、どれだけ静かにこの地を流れてきたのかが、掌を伝ってくる。
数えきれない花の芽をくぐり、葉の影を渡り、幾重にも揺れる光と混ざりながら、ここに至った水だった。
腰を下ろす。
風が草を押し、ひとつの道ができていた。
だが、それはすぐに消えた。
この地では、すべてが生まれ、すべてが消え、また戻ってくる。
確かなかたちは、どこにもない。
だが、だからこそ、何もかもが真実だった。
指先に、柔らかなものが触れる。
見ると、小さな虫が一匹、手の甲に止まっていた。
羽は薄く透け、複雑な模様が、陽の光を受けて光の文様となって踊っている。
払うことはせず、そのままにしていた。
虫はしばらく、指先を歩き、やがて静かに飛び立った。
空が、低くなる。
雲がゆっくりと形を変え、湿原の上に、大きな羽のような影を落とす。
風も、ひととき止まる。
すべてが呼吸を潜め、沈黙の中に沈んでいく。
ただ、湿原の奥で、風の通り道がふたたび開かれるのを、待っていた。
立ち上がる。
草をかき分け、再び足を進める。
どこへ向かうのかはわからない。
だが、ここではそれすらも、意味をなさなかった。
歩くことが、すでに風景の一部だった。
足元から、光が差し、影が伸びる。
手のひらには、まだ冷たい水の感触が残っている。
見上げた空の、その向こうに、ほんのわずかに眠る星の匂いがした。
風はもう、背を押すこともなくなり、光は傾き、草の色は静かに夜の音を含みはじめている。
足元に残る泥の感触だけが、そこにいたという証のように、ぬくもりを持っていた。
言葉には残らない景色だった。
ただ、それでも、胸のどこかでいまも、草々がゆれている。
あの湿原に立つたび、世界が少しやわらかくなったように感じられる。
それだけで、十分だった。