泡沫紀行   作:みどりのかけら

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冬の旅に出ると、風景はしばしば言葉より雄弁になる。
足元の雪の感触や、軒先に吊るされた布のなびき、薪がはぜる音。
それらは、誰かがかつていたという気配を、物語よりも深く語ってくれる。

この地に残る裂かれた布は、ただの布ではなかった。
声にならなかった想いの、ひそやかな証だったのかもしれない。

歩きながら、それにふれるたびに、少しずつ胸の奥があたたまっていくような気がした。


0144 裂き継がれし民の記憶の織物

凍てつく空気が吐息を静かに白くほどいてゆく。

風はわずかに頬を撫で、遠くの木立を通りすぎて、見えないものの声を連れてきた。

 

一歩ごとに雪はわずかに軋み、地の奥から微かな音を引き出す。

その音に耳を澄ませば、土の底に織り込まれた、昔語りの残響がかすかに聴こえる。

声ではない。言葉でもない。

ただ、冷えきった地表の、その深くに、何かが脈打っている。

 

木の皮に縫い込まれたような風紋の丘を越え、白く沈んだ川沿いに咲くのは、霜に彩られた名もなき草たち。

その葉脈のひとつひとつに、踏まれ、凍り、裂け、なおも立ち上がる季節の記憶が綴られている。

かつての陽を憶えているようなかすかなあたたかさが、指先に触れた瞬間だけ、ふっと灯る。

 

村の名は知らない。名札も音も持たぬその集まりには、土と火と布と風しかなかった。

 

薪を燃やす煙のにおい。

乾いた芒(すすき)の束にこすれる布の音。

雪に沈んだ小道に、繰り返し踏まれた足あとが織る、細やかな幾何の軌跡。

 

軒先の影に干されるのは、裂き継がれた布の帯。

かつて衣であったもの。誰かの背をあたため、膝にかけられ、夜をくるんで眠らせた布。

ほどかれ、裂かれ、また継がれて、今は風のなかに揺れている。

赤錆びた朱。煤けた藍。黴をふく寸前の白。

色たちは黙したまま、それでも抗うように残っている。

その手触りは、雪と火の間にある。

冷たさと温もりを一度に記憶したような、鈍く、柔らかな反撥。

 

遠い昔に死んだ誰かの夢が、そのまま布になったのではないかとさえ思える。

 

軒下の土間には、織り機の低い音が漂っていた。

とても小さく、まるで水のなかで響いているような、湿った音だった。

糸が張られ、裂かれた布が渡され、沈黙のなかで何かが少しずつ、形を成していく。

 

それは単なる布ではなく、ひとつの季節であり、忘れられた火であり、あるいは、誰かが語らなかった痛みそのもののように見えた。

 

歩みをとめ、雪を手に取る。

掌にふれた瞬間、それは声もなく溶けていく。

溶けることを拒まず、抵抗せず、ただ自らのかたちを無くしてゆく。

 

人の記憶もまた、そうしてほどけていくものかもしれない。

けれど、その断片を拾い集め、つなぎ合わせる手があるなら、布のように、ひとつの物語になりうるのだろうか。

 

焼け跡のような空の下、風は布の端を持ち上げては、山の稜線に遊ばせる。

まるで、それがどこか遠い場所への標のように見えた。

 

雪のなかに足を沈め、再び歩き出す。

残された布の切れ端が、風に舞ってこちらへ向かってくる。

手を伸ばし、つかみとる。

 

それは、だれかが裂き、だれかが継いだ記憶のかけらだった。

 

それを懐に入れると、不思議と胸の奥がわずかに熱を帯びた。

冷えきった大気のなか、かすかに生まれた温もりは、掌から心へとしずかに染みていく。

それは火ではなかった。灯でもなかった。

けれど確かに、凍えたものを静かにゆるめる力を持っていた。

 

小道はさらに狭まり、傾いた柵のそばを通りすぎる。

柵に絡みついた蔓草の影が、雪面に細く織物のような模様を落としていた。

その曲線はどこか見覚えのあるものに似ていた。

ふと、遠くの山肌に浮かぶ稜線と同じ曲がりをしていることに気づく。

この地に生きてきたものは、山を見て布を織り、雪を見て言葉を紡いだのだろうか。

 

どこからともなく漂ってきた香りが、足をとめさせた。

焦げた藁と、濡れた木の香りに似ていた。

その奥に、かすかに懐かしい匂いがある。

炊かれた穀の匂い。煮詰められた根菜の甘さ。

もう誰もいないはずのその小屋の戸口に、わずかに温かさが残っていた。

 

戸の隙間から差しこむ光に、細かい塵が舞っていた。

ひとつひとつが織り糸のように見えた。

この土地では、光さえも何かを織るための素材なのかもしれない。

誰の声も届かぬ時間のなかで、塵が光を裂き、つなぎ、空気のなかに記憶を編んでゆく。

 

土間の奥には、使い込まれた小さな腰織り機が残されていた。

その横には、裂いた布を重ねた束が置かれている。

色はすでに褪せている。

だが、ひとつひとつの裂け目には、確かに手のぬくもりがあった。

その布を織った者は、指の冷たさや、背中を丸めた夜のことを、誰にも言葉にせずに過ごしてきたのだろう。

そしてただ、布のなかにすべてを預けたのだ。

 

裂くこと。継ぐこと。

そのくり返しのなかに、受け継がれてきたものがある。

声にできなかった祈りも、語られぬ哀しみも、手のひらの記憶に染みこんでいる。

その記憶を、ひと目ひと目に織りこんでゆく。

 

振り返ると、歩いてきた道は風にかき消され、もう見えなかった。

雪がすべてを覆い、痕跡は跡形もない。

だが、胸の奥にだけは、あの裂かれた布の重みが残っている。

 

歩き出す。

布を縫うように、雪原を縫っていく。

消えていくもの、残されるもの、見えぬまま受け継がれるもの。

すべてをつなぎあわせるように、白のなかを進んでいく。

 

足の下で雪が軋む音は、まるで遠い昔から続く機織りの音のようだった。

その繰り返しに耳を傾けながら、

裂き継がれし民の記憶が、静かに今も織られていることを感じていた。




裂き継がれた布には、名もない者たちの記憶が縫い込まれている。
語られることのなかった痛みも、静かに灯されたあたたかさも、すべては色と繊維のなかに、そっと包まれていた。

旅を終えてもなお、懐にしまった布の手ざわりが、冬の風と共に胸の奥に残っている。
それは、もう失われたものたちが、確かにここにいたという証のようだった。
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