泡沫紀行   作:みどりのかけら

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あまりにも静かだったので、歩みを止めた。
風がそっと葉を撫で、水が岩に触れ、影が土を濡らしていた。

どこからが始まりで、どこまでが終わりなのかもわからないまま、
ただその場所に身を置いたとき、ひとつの声が聞こえた気がした。

それは名を持たぬ風景が、名を超えて語る声だった。


0145 囁きの流れる翠の回廊

濡れた苔の匂いが、土と水のあわいから立ちのぼる。

足裏を撫でるように続く細道は、翡翠の鱗を敷きつめたような石畳に覆われ、柔らかな影のなかで静かに呼吸していた。

葉と葉のあいだから零れる光は、淡い翳りを帯びながら揺れており、水音が遠く近く、囁きのように重なり合って流れていく。

 

ひと筋の風が、頬をかすめていった。

どこかで葉が擦れ、雫が落ちる。

名も知らぬ花の白が、ふとした瞬間、そこにだけ時をとどめるようにして咲いている。

手を伸ばせば触れられそうで、けれどほんの一歩遅れて溶けていく。

現れ、失われ、それでも、そこにあったことだけは、きちんと刻まれている。

 

水はひとつとして同じ音を持たない。

岩に当たり、くるりと渦を描き、あるいは細く裂け、あるいは深く潤む。

流れは、形を変えながらもひとつの声を持ち続けている。

数えきれぬ時間のなかで、何ひとつ急がず、何ひとつ後悔せずに、ただ在り続けている音。

 

そのそばを、ゆっくりと、歩く。

息を吸うたび、胸の奥が満たされていくような感触。

冷たすぎず、熱を持たず、それでいて体の奥にまで沁み渡る。

木々の緑は眼差しにやさしく、空気の層に包まれて音さえも丸くなる。

ときおり、すぐ隣を蝶のように小さな虫が掠め、指先に風のくちびるが触れる。

 

小さな滝が、岩の段差をころがっていく。

その下では泡が弾け、苔の上に水飛沫が音もなく降りていた。

見上げれば、木洩れ陽が降り注いでいる。

陽はただまっすぐに落ちてくるのではなく、葉の濃淡を通して幾重にも折り重なり、光の布のように地を包む。

 

立ち止まり、耳を澄ます。

流れはとどまらないが、音は変わる。

ある場所では密やかに、またある場所では跳ねるように。

枝のうえでは小鳥が羽音もなく瞬きし、雲の流れが、頭上にほのかな翳りをつくる。

 

かつて、この流れに名があったとしても、今はその名を思い出さない。

名を失うことで、風景はより風景に近づく。

形を留めることよりも、溶けてゆくことのほうが、静かに深く、人の中に残る。

 

水辺の石に腰を下ろす。

冷たさが布を透かして肌へと沁みるが、それは厭わしいものではない。

川の声を背に、仰ぐ空は木々の間で切り取られ、どこか遠くの青が、その裂け目から滲んでいた。

 

幾本もの根が、地を這っていた。

太古からこの地を見てきたような大樹の根が、岩を割り、水を抱き、空へと枝を伸ばしている。

その一本にそっと触れてみると、かすかな湿りと共に、何かが掌に伝わる気がした。

それが木の記憶か、自分の幻かはわからない。

だが、目を閉じれば、遠い響きが確かにそこにあった。

 

空気がふいに、少しだけ重たくなる。

雲が陽をさえぎったのだ。空の色が変わり、川面の光が失われる。

翳りのなかでは緑がより深く、沈黙のような気配が降りてくる。

葉の一枚が、音もなく落ちた。

その軌跡を、ただ目で追う。

 

また歩き出す。

水は左に寄り、時折、道すら飲み込みそうなほどにせり出してくる。

石の縁を踏み外さぬよう足先を揃え、木の根に支えられた小道を進んでいく。

指先が潤いにかすめられ、衣にしっとりとした重みが増す。

 

その重みさえ、今はどこか心地よい。

すべてが柔らかく、濡れている。

木も、石も、風も、影も。

言葉にすれば消えてしまうような感触が、皮膚をすべり、目の奥にまで届いてくる。

呼吸の音すら静まり、ただ流れる水と葉擦れが心の奥に降り積もっていく。

 

前方に、倒れた古い幹が道を横たえていた。

一瞬、立ち止まる。

乗り越えるには、少しだけ身をかがめなければならない。

幹の表面は厚い苔に覆われ、まるで深く眠る獣の背のようだった。

掌をあてると、ひんやりとした感触のなかに、わずかな脈動のような温もりがある。

木は朽ちてもなお、森の時間を宿していた。

 

幹をまたぎ、ふたたび歩を進めると、空気に香りが変化していた。

少し甘やかで、深い緑に溶け込んだような香り。

遠くから、雨を連れてくる風の気配がする。

空はまだ明るいが、その明るさの底に、しずかな気圧の変化が潜んでいるのがわかる。

 

広がりのある場所に出た。

川はここで大きく広がり、水音もやわらかくなっている。

流れというよりも、静かな呼吸のように、足元の石を洗い、苔を撫でている。

中洲のような苔むした岩に、小さな白い花がいくつか咲いていた。

風が揺らし、光がその輪郭を透かす。

 

背後で、また雫が落ちる音がした。

幹の上に乗った水が、葉のふちを伝って、静かに落ちてくる。

ひとつ、またひとつ。

リズムを持たぬその音は、耳に届くよりも早く、心に染み入る。

 

道はふたたび狭まり、木々がより近くに寄ってくる。

葉の重なりが濃くなり、空の色が忘れられていく。

だが、ここでは光そのものが生きていた。

葉の裏に溶け込み、幹の肌に沿い、苔の波打つ面を柔らかく照らしていた。

形ではなく、気配としての光。

目を閉じても、瞼の裏に淡く残る色。

 

ある場所で立ち止まる。

川が、断崖のような岩に当たり、細い水の布となって流れ落ちていた。

手を伸ばせば、届く距離にそれはある。

けれど、ただ見つめる。音もなく、白く、まっすぐに。

触れれば壊れてしまうような静けさが、その水にはあった。

 

その下では、小石がいくつも積み重ねられていた。

誰かの手によるものだろうか、それとも風と水が偶然にも築いたものか。

理由はわからない。

ただ、その積み重ねられた石のあいだから、小さな若葉が顔をのぞかせていた。

 

しずかに歩を進める。

周囲は変わらず翠に沈み、流れはずっと傍らにある。

 

ときおり、水面に落ちた雫が、丸い波紋を広げてゆく。

その輪がすうっと消えるとき、言葉にならない感情がひとつ、胸の奥に沈んでいく。

 

何かを思い出しそうで、けれど、それが何だったのかは曖昧なまま。

それでいて確かな手触りだけが、そこにある。

 

それは、名もない石を撫でる掌のような記憶。

それは、ひとときだけ翳る空の色。

 

誰にも届かない囁きが、

翠の回廊を、今日も流れている。




光が薄れ、音が遠のくころ、
そこに確かにあった気配だけが、まだ胸の奥に残っている。

あの流れに、言葉は要らなかった。
けれど、もしもそっと耳を澄ませば、今も囁きは届いてくる。

誰のものでもない記憶が、
深い翠のなかで、ゆっくりと息をしている。
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