泡沫紀行   作:みどりのかけら

151 / 1177
春の深みに、ふと足をとめたくなる場所がある。

名も知らぬ山の奥、光も風も、まるで眠っているように静かな地。
白い花が咲いていた。
その花のそばで、声にならない祈りが風にほどけていた。

遠い昔に忘れられた景色ではない。
ただ、いまここに、そうしてあっただけのこと。


0151 静寂に咲く仏の光

枝の先で春がほころぶ音を聞いた気がした。

誰も答えぬ山路の奥、ひとひら、ふたひらと降りてくるのは、風か、花か、記憶か。

 

湿った土の匂いが足もとに立ちのぼり、遠い歳月の底を踏むような感触が、足裏にひっそりと残る。

苔むした石が点在し、呼吸のように静かに冷えていた。

 

鳥の声すら届かぬほどに、ここには音がなかった。

それなのに、なぜだろう。

すべての音が、聴こえていた。

 

淡く霞んだ山肌を縫うように、やわらかな白があたりを満たしていた。

桜でもない。

梅でもない。

それは名を問うことを拒むように、ただ、咲いていた。

 

やさしく、そして、ただごとではなく。

 

一本の石段があった。

ひとつ、ふたつと数えるほどに、時の層を重ねている。

一段ごとに、小さな風のかけらがすれ違い、袖を撫でてゆく。

草の香、遠くに咲く木蓮の白い影、誰かが置いていった祈りの残り香。

 

指先に触れた手すりは、ひんやりと骨のように硬く、掌の上で古い名を囁く。

けれどその名を知ってはならぬと、心のどこかがそっと諭す。

 

目の前に立つのは、朽ちかけた門。

陽の光をうすくまとうその門は、まるで一枚の紙のように頼りなく、それでも、くぐるたびに誰かの命が過ぎていったことを知っていた。

 

門を越えたとき、音が変わった。

 

風がいったん止み、木々がざわめくのもやんだ。

あらゆる時の層が剥がれ落ち、ひとつの呼吸だけが、空のどこかに浮かんでいた。

 

土を踏むたびに、花が舞った。

枝の上でも、石の間でも、そして自分の髪にも。

白い花びらは重さを知らず、落ちることすらためらうように、宙にとどまっていた。

 

境内に近づくほど、音はより静かになっていった。

空気が澄みすぎていて、体の輪郭がかすれる。

自分が歩いているのではなく、白い光の中に浮かべられているだけなのだと錯覚する。

 

それでも、足が止まった。

ひとつの石像があったから。

 

苔に包まれたその像は、目を伏せて、何かを聴いていた。

声なき祈りか、風の行方か、それとも、忘れられた約束か。

仏と呼ぶにはあまりに人間くさく、けれど人と呼ぶには気高すぎた。

 

その姿に、なぜか涙を誘うような、凪いだ悲しみがあった。

 

掌を合わせるでもなく、ただ、静かに立っていた。

沈黙の中に、自分の影だけが長く伸びていく。

 

石像の奥に、祠のような建物があった。

屋根は苔をまとい、瓦の隙間からは小さな草がのぞいている。

扉は閉ざされていたが、拒むものではなかった。

むしろ、ただ待ち続けているようだった。

 

風が戻ってきた。

今度の風は、遠くから長い旅をしてきたような匂いがした。

草と灰と、ほんの少しの、焼けた紙の香り。

 

その一瞬だけ、遠い昔に見た白い野が脳裏に広がる。

そこには何もなかった。

けれど、すべてがあった。

 

草の茂みをくぐり、もうひとつ奥へと進んだところで、ふいに光が変わった。

日差しではない。

それは音のない光。

声のない祝福。

 

空気に混じっていた。

あるいは、土の粒に紛れていたのかもしれない。

 

視界の端に、ふと揺れるものがあった。

それは煙のようにかすかで、すぐに消えてしまいそうな白。

しかし、確かにそこに「咲いて」いた。

 

葉のない枝に宿る小さな花びらたちは、春の名を語るにはあまりに静かだった。

声を上げることなく、それでも見る者の奥深くへと沁み込んでくる。

まるで、失われた言葉のかわりに咲くような花。

 

目を閉じると、木々のざわめきが胸の内でゆっくりと広がっていく。

それは音ではなく、記憶だった。

名もない山の奥、白い花の咲く場所で誰かが生き、誰かが死に、祈りが途切れることなく手渡されてきたという、遠い遠い感触。

 

草むらに腰をおろす。

春の地面はまだ少し冷たく、けれど深くやさしい湿り気があった。

両手をひろげると、指先が白い花びらをすくう。

ふれることをためらうほど、柔らかく、軽く、

それでいて確かな重みを持っていた。

 

どこからか、ひとしずくの水音がした。

湧き水か、落ちた雫か。

ひとしずくが石に触れ、そして沈黙が戻る。

 

その繰り返しが、まるで時間の鼓動のように思えた。

 

木立の奥、ひときわ高く伸びた枝の先に

一羽の白い鳥がとまっていた。

遠くを見つめるように、じっと動かず、その身に朝露の光を宿していた。

 

その姿を見つめるうちに、胸のどこかがほどけていく。

言葉にはならないままの感情が、静かに流れ出し、土と風と一緒に、この場所へしみ込んでゆく。

 

ふと、風の向きが変わった。

花びらが舞い上がる。

その一瞬だけ、境内のすべてが淡く光に包まれた。

 

それは祈りだった。

あるいは、それ以上でも、それ以下でもなかった。

 

重ねられた年月のなかで、誰かが手を合わせ、誰かが涙をこぼし、やがてまた誰かが歩いてきて、この白い光に包まれる。

 

扉の前に立ち、そっと掌を置く。

木の質感が手に伝わる。

乾いて、古く、そしてあたたかい。

 

開くこともせず、ただ触れているだけで、すべてが伝わってくるような気がした。

 

すこしだけ首を垂れる。

言葉は必要なかった。

 

白い花が、またひとつ、肩に落ちた。

 

立ち上がる。

ふたたび歩き出す。

 

振り返ると、石段の向こうに、白い風が流れていた。

名もなき花が咲き、やがて散り、それでもこの地には光が残る。

 

誰に知られることもなく、誰に誇ることもなく、ただ、在りつづける。

 

そしてそれだけで、すべては足りていた。




歩いたあとの足裏に、まだ湿った土の感触が残っていた。
肩にひとひら落ちた白い花は、いつの間にか消えていたけれど、その重さは、心のどこかに静かに残っていた。

咲いて、散って、また咲くものたちがいる。
見つけられなくても、気づかれなくても、光はたしかに地に宿る。

それを一度見たということだけが、歩いてきた意味になる。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。