泡沫紀行   作:みどりのかけら

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新緑の気配が空を満たす頃、湿った風が森を満たしていた。葉のあいだからこぼれる光は、日常の隙間をそっと縫い合わせ、歩を進めるたびに、忘れていた感覚を呼び覚ます。水音はまだ遠く、けれど耳の奥では、すでに静かに鳴っている。

ふと、ある場所の記憶が胸の底から立ち上がった。言葉にするにはあまりに静かで、手を伸ばせば崩れてしまいそうな、あの時の気配。

風に触れ、光に包まれ、水に抱かれた、ただそれだけの記録。


0152 天より落つる聖なる雫

陽を映す水が、眠りのように澄んでいた。

 

ひとすじの細道を分け入るたびに、風の匂いが変わっていく。

若葉の香りは乳白色の靄に溶け、空気の粒の奥でひっそりと命を育てていた。

踏み締める土はしっとりとして、冬の影をすでに遠くに追いやっている。

 

うっすらと滲む靄の向こうに、木々の肩が重なり合い、そのあいだを光が抜ける。

薄衣のように揺れる葉の帳。

そのひとつひとつに露が宿り、やがて静かに落ちて、音もなく地へ還る。

 

湿った岩肌があらわれ、苔むす緑が小さな命の庭をつくっていた。

掌を這わせれば、微かなぬくもりと冷たさが混ざり合う。

かすかに振動するものが、そこに確かに生きていることを伝えてくる。

 

水音が、森の奥底から絶え間なく聞こえていた。

遠くではない。

目の奥に届くほど近く、けれど見えず、ただ音だけが鼓膜の裏をやさしく叩く。

 

木の根が隆起する斜面を越えると、ひらけた空間が待っていた。

 

そこに、水は天から落ちていた。

 

どこまでも高く、どこまでも遠いところから。

まるで空そのものが細く裂け、その隙間からこぼれ落ちているようだった。

幾筋もの白が、風に乗って踊りながら、岩を打ち、霧となって舞う。

 

水の名残をまとった風が、肌を撫でるたびに体温を奪う。

それは冷たさというよりも、別の時の層に触れられるような感覚だった。

いまこの身が在る場所と、遠い過去とが、音を介して重なっているような気配。

 

落水の下に広がる淵は、青とも緑ともつかぬ深い色をしていた。

 

覗き込むと、底は見えない。

けれど光は、確かにそこに射し込んでいる。

波紋のひとつも起こらぬほどに、水面は静かだった。

水は流れている。激しく、絶え間なく。

けれどその中心にあるこの静寂は、どこにも移ろわず、ただ永劫を湛えているようだった。

 

周囲の岩壁には、幾千年を生きたかのような苔がこびりつき、葉のひとつひとつが時の記憶を語っているかのようだった。

風の抜ける音が、木の葉をそよがせ、霧を震わせる。

そのすべてが、静けさを深く染めていく。

 

片手をひたせば、指の間から水がこぼれ落ちる。

 

しなやかな絹のように、水は肌に触れた。

その一滴は、はじめはただ冷たく、しかしすぐに脈打つような感覚を与えた。

身体のなかの澱んだものを流し去るような、目に見えないものがこの地には在る。

 

苔を滑らせる細流が、小さな段差で囁くように音を立てていた。

葉のあいだから差す光が水面に映り、揺れる模様が足元を漂う。

影と光が交わり、移ろい、また元に戻る。永遠に繰り返す営みのように。

 

水音がまた変わった。

 

それは、耳に届く音ではなかった。

足の裏から、背骨を伝い、静かに胸を打つような震え。

心を覆う皮膜が、何かに溶かされていくような、そんな予感を伴う感覚だった。

 

静かだった。

ただ、水が落ちていた。

 

だがその音は、すべてを語っていた。

 

足元に咲いていた白い花に気づいたとき、風が一度、深く息を吐いた。

 

その花は群れず、誰にも気づかれぬようにひっそりと咲いていた。

茎は細く、葉は露を受けて震えていたが、芯には確かな強さがあった。

水の気配に包まれたこの場に在ることが、まるで初めから定められていたかのように、そこにあった。

 

一歩を踏み出すごとに、土の感触が微かに変わる。

ぬかるんだ場所、乾きかけた場所、足にまとわりつく葉の感触。

靴底からではわからぬ世界が、肌を通してじわじわと伝わってくる。

 

上を見上げれば、若葉の隙間から淡く差す光が降りていた。

その光は、ただ明るいというだけのものではなかった。

葉を透かし、風にゆれることで、いくつもの表情を持っていた。

 

ときに涙のように、ときに歌うように、ときにただ、何も語らぬままに。

 

水の落ちる音は、絶え間なく続いている。

 

近づけば近づくほど、音は柔らかさを増していた。

轟くよりも、包まれる。

打ちつけられるより、抱かれる。

水は空より落ちているというのに、それは痛みを連れてこなかった。

 

石に座り、しばし目を閉じた。

 

瞼の裏に、光がゆっくりと沈んでいく。

 

耳元では、風が揺れている。

どこかで小鳥が葉を鳴らし、草を踏む小さな獣の気配が通り過ぎた。

遠くの木々が身じろぎし、その音が水音と重なり、やがてひとつになる。

 

どれほどの時が過ぎたのか。

 

頬に触れた雫が、そっと目を覚まさせた。

雨ではなかった。

木の葉を伝った一滴が、ようやく地上にたどり着いたのだった。

 

水面を見つめる。

 

空を映すそれは、雲ひとつない青でも、沈んだ翳りでもなかった。

日差しが細波に踊り、木々の影が柔らかく重なり合っていた。

見上げる空とはまた別の、静かな天が、そこに広がっていた。

 

この場所は、生まれる前からここに在ったのだろう。

誰の記憶にも残らずとも、誰に言葉を与えられずとも。

水は流れ、光は射し、風は通る。

 

それは、願いにも似ていた。

 

誰のためでもなく、ただそこに在るということ。

 

音もなく崩れ落ちる水の帳が、世界を隔てていた。

けれどその向こう側に触れようとする手は、不思議とどこにも行き場を失わなかった。

濡れた指先に触れるものすべてが、やさしさの形をしていた。

 

葉の擦れ合う音、苔を這う水、雲間からの光、深く沈む淵の静けさ。

それらはすべてひとつに溶け合い、気づけば胸の奥に沈んでいく。

 

そこに痛みはなかった。

けれど、名づけようのない震えが、微かに内に残った。

 

歩き出すと、水音はゆっくりと遠ざかる。

だが、完全に消えることはない。

背中に、掌に、眼差しの奥に、確かに刻まれていた。

 

ふと、振り返った。

 

その景色は、もう霧の向こうに消えかけていた。

けれど、あの水の落ちる音だけは、なお耳に残っていた。

 

ただ、静かに、永遠を語るように。




ふり返っても、そこにはもう何も見えなかった。ただ、深く息を吸い込めば、かすかに苔の香りが残っていた。音も、光も、指先の感触さえも、すでに遠いものとなりながら、どこかでまだ、確かに続いている気がする。

歩いた道の記憶は、足跡のないまま、心の奥に沈んでいった。
それは誰に語るでもなく、誰からも気づかれぬままに。

けれど、あの水の音だけが、今日もなお、胸の奥で静かに降り続けている。
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