泡沫紀行   作:みどりのかけら

1523 / 1523
山へ入る前の川辺には、刈られた葦の匂いが薄く残っていた。
浅瀬を渡る風は冷え始め、濡れた袖口を静かに重くした。


遠い尾根にはまだ淡い陽が留まり、雲の縁だけを鈍く照らしていた。
私は濡れた石を踏みながら、細い山道へゆっくり足を向けた。


杉林へ近づくにつれ、土の湿りは深くなり、足裏へ柔らかな冷たさが沈んできた。
鳥の声は次第に遠ざかり、風だけが長い影を揺らしていた。



1523 月影に眠る武家の祈り

杉の根が浮いた山道を踏むたび、湿りを含んだ土が草履の裏へ重くまとわりついた。

谷から吹き上げる風には、遠い水の匂いが薄く混じっていた。

 

 

崩れかけた石段の脇で、赤茶けた苔が夕光を吸っていた。

掌を添えると冷えが深く、長く雨を抱えていた岩の沈黙が指へ移った。

 

 

空は早く陰り、尾根の向こうで細い月が雲へ沈みかけていた。

木々の隙間に墓所の屋根が見え、古い祈りだけが夜気へ残されているように思えた。

 

 

門の柱には細かな裂け目が走り、触れると乾いた木肌が爪を曇らせた。

足元には黒い落葉が積もり、踏むたび水気を含んだ音が低く返った。

 

 

苔むした墓石は肩を寄せ合うように並び、誰もいない境内に淡い白さを浮かべていた。

香の消えた匂いだけが微かに残り、空気の奥で揺れていた。

 

 

石畳へ落ちた月影は薄い硝子の膜のようで、踏み込むたび割れぬまま形を変えた。

冷えた風が袖口へ入り、皮膚の内側まで静けさを沈めてきた。

 

 

一つの墓標に細い蔦が絡み、黒ずんだ文字を半ば隠していた。

指先で蔦を払うと、濡れた感触が糸のように残った。

 

 

谷の底から梟の声が届き、山の闇がゆっくりと深くなった。

私は軒下へ身を寄せ、湿った木の香を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 

屋根の端から落ちる雫は絶え間なく、石へ小さな輪を刻み続けていた。

その音だけが時を測るようで、夜気はさらに冷たく澄んでいった。

 

 

墓前へ供えられた枯枝は白く乾き、折れば脆く砕けそうだった。

風が吹くたび細かな灰が舞い、月明かりの中で銀色に散った。

 

 

奥まった祠の扉には古い鉄が沈み、触れると掌へ鈍い冷たさが滲んだ。

閉ざされた暗がりの向こうで、誰かの息だけが長く眠っている気がした。

 

 

山裾から流れる霧は低く、草の先を濡らしながら石段へ這い上がってきた。

裾を掠めた冷気は水のようで、歩みを少しずつ重くした。

 

 

杉葉の擦れる音は細く続き、耳の奥で遠い潮騒のように崩れていた。

月は雲へ半ば隠れ、墓石の輪郭だけが淡く残っていた。

 

 

苔に埋もれた小石を拾うと、芯まで冷え切った重さが掌へ沈んだ。

そのまま握っていると、長い冬を越えた川石の気配が静かに伝わってきた。

 

 

空気は次第に白くなり、吐く息が闇の中で淡くほどけた。

私は石垣へ背を預け、冷えた感触を肩に受けながら目を閉じた。

 

 

閉じた瞼の裏では、崩れた月影だけが水面のように揺れていた。

名を失った祈りが夜露に濡れ、硝子の欠片のように静かに沈んでいった。

 

 

杉の幹を撫でる風はさらに細くなり、枝先の闇だけが深く揺れていた。

濡れた草履の冷えが足裏へ滲み、歩かぬまま時だけが静かに沈んでいった。

 

 

墓所の石灯籠には淡い露が浮かび、月明かりを鈍く抱え込んでいた。

指先で触れると水滴は崩れ、冷たい筋となって手首まで流れ落ちた。

 

 

谷を覆う霧の向こうで、かすかな鐘の余韻が長く揺れていた。

その響きは土へ染み込む雨のように静かで、夜明け前の空へ薄く溶けていった。

 




薄明の空は群青をほどき、谷間へ淡い白さを落としていた。
墓石に溜まった露は静かに光り、夜の冷えだけをそこへ残していた。


山道を下るころには、杉葉の雫が肩へ細かく落ち続けていた。
冷えた衣の重みの奥で、昨夜の鐘の余韻だけがまだ微かに揺れていた。


川辺へ戻ると、水面には砕けた雲がゆっくり流れていた。
私は湿った草履を脱ぎ、指先へ残る石の冷たさを長く眺めていた。
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