浅瀬を渡る風は冷え始め、濡れた袖口を静かに重くした。
遠い尾根にはまだ淡い陽が留まり、雲の縁だけを鈍く照らしていた。
私は濡れた石を踏みながら、細い山道へゆっくり足を向けた。
杉林へ近づくにつれ、土の湿りは深くなり、足裏へ柔らかな冷たさが沈んできた。
鳥の声は次第に遠ざかり、風だけが長い影を揺らしていた。
杉の根が浮いた山道を踏むたび、湿りを含んだ土が草履の裏へ重くまとわりついた。
谷から吹き上げる風には、遠い水の匂いが薄く混じっていた。
崩れかけた石段の脇で、赤茶けた苔が夕光を吸っていた。
掌を添えると冷えが深く、長く雨を抱えていた岩の沈黙が指へ移った。
空は早く陰り、尾根の向こうで細い月が雲へ沈みかけていた。
木々の隙間に墓所の屋根が見え、古い祈りだけが夜気へ残されているように思えた。
門の柱には細かな裂け目が走り、触れると乾いた木肌が爪を曇らせた。
足元には黒い落葉が積もり、踏むたび水気を含んだ音が低く返った。
苔むした墓石は肩を寄せ合うように並び、誰もいない境内に淡い白さを浮かべていた。
香の消えた匂いだけが微かに残り、空気の奥で揺れていた。
石畳へ落ちた月影は薄い硝子の膜のようで、踏み込むたび割れぬまま形を変えた。
冷えた風が袖口へ入り、皮膚の内側まで静けさを沈めてきた。
一つの墓標に細い蔦が絡み、黒ずんだ文字を半ば隠していた。
指先で蔦を払うと、濡れた感触が糸のように残った。
谷の底から梟の声が届き、山の闇がゆっくりと深くなった。
私は軒下へ身を寄せ、湿った木の香を胸いっぱいに吸い込んだ。
屋根の端から落ちる雫は絶え間なく、石へ小さな輪を刻み続けていた。
その音だけが時を測るようで、夜気はさらに冷たく澄んでいった。
墓前へ供えられた枯枝は白く乾き、折れば脆く砕けそうだった。
風が吹くたび細かな灰が舞い、月明かりの中で銀色に散った。
奥まった祠の扉には古い鉄が沈み、触れると掌へ鈍い冷たさが滲んだ。
閉ざされた暗がりの向こうで、誰かの息だけが長く眠っている気がした。
山裾から流れる霧は低く、草の先を濡らしながら石段へ這い上がってきた。
裾を掠めた冷気は水のようで、歩みを少しずつ重くした。
杉葉の擦れる音は細く続き、耳の奥で遠い潮騒のように崩れていた。
月は雲へ半ば隠れ、墓石の輪郭だけが淡く残っていた。
苔に埋もれた小石を拾うと、芯まで冷え切った重さが掌へ沈んだ。
そのまま握っていると、長い冬を越えた川石の気配が静かに伝わってきた。
空気は次第に白くなり、吐く息が闇の中で淡くほどけた。
私は石垣へ背を預け、冷えた感触を肩に受けながら目を閉じた。
閉じた瞼の裏では、崩れた月影だけが水面のように揺れていた。
名を失った祈りが夜露に濡れ、硝子の欠片のように静かに沈んでいった。
杉の幹を撫でる風はさらに細くなり、枝先の闇だけが深く揺れていた。
濡れた草履の冷えが足裏へ滲み、歩かぬまま時だけが静かに沈んでいった。
墓所の石灯籠には淡い露が浮かび、月明かりを鈍く抱え込んでいた。
指先で触れると水滴は崩れ、冷たい筋となって手首まで流れ落ちた。
谷を覆う霧の向こうで、かすかな鐘の余韻が長く揺れていた。
その響きは土へ染み込む雨のように静かで、夜明け前の空へ薄く溶けていった。
薄明の空は群青をほどき、谷間へ淡い白さを落としていた。
墓石に溜まった露は静かに光り、夜の冷えだけをそこへ残していた。
山道を下るころには、杉葉の雫が肩へ細かく落ち続けていた。
冷えた衣の重みの奥で、昨夜の鐘の余韻だけがまだ微かに揺れていた。
川辺へ戻ると、水面には砕けた雲がゆっくり流れていた。
私は湿った草履を脱ぎ、指先へ残る石の冷たさを長く眺めていた。