泡沫紀行   作:みどりのかけら

1524 / 1541
朝霧の残る山裾を抜けるころ、潮の匂いだけが低く流れてきた。
湿った土は草履の裏へ重く絡み、歩幅を少しずつ鈍らせていた。


谷間を渡る風には冷えた水気が混じり、袖口の布を静かに湿らせた。
遠くで砕ける波音はまだ小さく、それでも胸の奥へ細く届いていた。


岬へ近づくにつれ、空の青みがわずかに硝子めいて澄み始めた。
乾いた喉へ塩気が触れ、見えない海の輪郭だけが先に滲んできた。



1524 碧晶の潮結晶岸

波の退いた礫浜に、薄青い硝子の欠片のような石が沈んでいた。

乾いた潮風が唇を裂き、舌にわずかな鉄の味を残した。

 

 

崩れた崖肌から白い粉砂が流れ、足首へ淡くまとわりついた。

陽に温められた石を踏むたび、踵の奥へ鈍い熱が沈んだ。

海は濁りを持たず、深いところだけ群青に翳っていた。

 

 

背負袋を下ろすと、肩に残っていた重みが遅れて脈打った。

海鳴りは低く、胸骨の裏側へ湿った震えを押し込んできた。

 

 

浜辺には砕けた碧晶が散り、波に濡れるたび青白い膜を浮かべた。

拾い上げたひとつは冷えきり、掌の熱を静かに奪っていった。

濡れた指先には塩が結晶し、皮膚を細く裂いていた。

 

 

雲は高く、光だけが音もなく降り積もっていた。

遠い岬の影は海面へ細長く溶け、潮の揺れに合わせて崩れていった。

 

 

昼を越えるころ、砂混じりの風が脛を打ちつけ始めた。

歩みを止めるたび、衣の裾に溜まった湿気が肌へ貼りついた。

喉の奥には温い潮気が残り、水を飲んでも消えなかった。

 

 

波打ち際には藻の匂いが濃く漂い、腐りかけた甘さを含んでいた。

足裏の石は丸く磨かれていたが、ときおり刃のような欠片が混じっていた。

 

 

崖下の陰へ身を寄せると、冷気が脇腹を静かに刺した。

岩壁には透明な筋が幾重にも走り、濡れた鉱脈のように淡く光っていた。

触れた指先だけが冷え、腕の深くまで静かな痺れが広がった。

 

 

潮騒の隙間で、小石同士の擦れる音が絶えず鳴っていた。

その細い響きは、硝子器の底で砕ける霜に似ていた。

 

 

浜の端には黒い岩棚が突き出し、白波を幾度も噛み砕いていた。

濡れた岩を踏むたび、足裏から硬い冷たさが膝へ這い上がった。

海霧は低く漂い、袖口へ細かな水滴を縫い込んでいた。

 

 

雲間の陽が傾き始めると、碧い石の輪郭だけが急に濃く浮かび上がった。

乾ききった掌に乗せると、石は水を含んだ瞳のような重みを返した。

 

 

遠浅の海では、小波が幾重にも重なり白い筋を曳いていた。

その揺れを眺めていると、胸の内側に沈んでいた古い湿りまで揺れ始めた。

風は弱まり、耳朶に残る潮音だけがゆるやかに脈を刻んでいた。

 

 

浜へ流れ着いた流木には、長い歳月に削られた柔らかな窪みがあった。

指を滑らせると、水を吸った木肌がわずかに沈み、冷えた泥の感触を返した。

 

 

空の青みが薄れるにつれ、海面は鉛色へ静かに沈んでいった。

砕けた石の欠片だけが微かな光を留め、波間で淡く瞬いていた。

 

 

歩き続けた足は重く、脹脛の奥に鈍い熱を抱えていた。

湿った草を踏むたび、冷えた露が足袋へ染み込み、皮膚を縮ませた。

それでも潮の匂いは途切れず、背後から細く追いかけてきた。

 

 

崖上へ出ると、海は一枚の碧晶のように静まり返っていた。

風に削られた岩肌だけが白く乾き、夕闇の縁で骨のように浮いていた。

 

 

掌に残していた小石は、夜気の中でさらに冷えていた。

握り込むほど硬さは澄み、指骨の隙間へ静かな重みを沈めた。

遠くで波が砕け、その白さだけが闇の底に長く残っていた。

 




夜更けの浜では、波の白さだけが闇の底で静かに揺れていた。
掌に残る碧晶の冷たさは薄れず、骨の内側へ淡く沈んでいた。


崖道へ戻るころ、潮風は背から衣をゆるく押し続けていた。
濡れた石を踏むたび、小さな響きが足裏で乾いて砕けた。


海はもう見えなかったが、耳の奥には絶えず潮騒が残っていた。
その湿った余韻だけが、夜明け前の空気に細く溶け続けていた。
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