泡沫紀行   作:みどりのかけら

1525 / 1541
峠へ入る前の村で、薄青い硝子瓶を朝露の中へ並べた。
冷えた瓶肌に触れるたび、指先から眠気の残りが静かに剥がれていった。


湿った土道には、昨夜の雨が細い筋を残していた。
薬箱の重みはまだ浅く、歩幅だけが乾いた草の匂いを追っていた。
遠い田から昇る煙が、白布のように低空を漂っていた。


杉林へ差しかかる頃、風は薬草を裂いたような青苦い香へ変わった。
肩紐の擦れる熱が鎖骨へじわりと滲み、冬前の空だけが妙に透き通って見えた。



1525 旅薬師の秘匿行商録

雪の縁がまだ土に残る峠道で、薬箱の紐が肩へ深く食い込んでいた。

硝子瓶の触れ合う乾いた音だけが、薄い雲の底を転がっていた。

 

 

湿った杉皮の匂いが谷から満ち、足袋の裏へ冷えが沁みてきた。

村へ近づくにつれ、軒下の干し草が夕湿りを抱えはじめた。

 

 

戸口へ薬を置き、代わりに黒豆と乾魚を受け取った。

指先へ残った塩気が、夜半まで消えなかった。

 

 

川沿いの石は昼の熱をわずかに残し、掌へ柔らかな温度を返した。

流れの底で揺れる藻だけが、暮色より早く沈んでいた。

 

 

硝子瓶へ満たした丸薬は、琥珀のように淡く濁っていた。

背負うたび小さな重みが脇腹へ寄り、歩幅を静かに削っていった。

乾いた喉へ山水を流し込むと、胸の奥で鉄に似た冷えが鳴った。

 

 

古い社の脇を抜ける頃、風は薬草を煎じる匂いへ変わっていた。

遠い家々の灯が、薄布越しの火種のように揺れていた。

 

 

濡れた笠を膝へ伏せると、藁の裂ける感触が掌へ残った。

土間に置いた箱から、微かな甘苦い香が立ちのぼっていた。

 

 

山腹の畑では、刈り遅れた茎が霜を抱え込んでいた。

白く乾いた息が、道端の薄闇へ細く流れていった。

脛に貼りつく冷気だけが、夜の深さを教えていた。

 

 

朝靄の中で硝子瓶を拭うと、布へ淡い薬脂が滲んだ。

透けた光は脆く、指を折れば崩れそうに見えた。

 

 

狭い渡し場で舟を待つ間、濡れ砂が草履へ重く絡みついた。

川霧の白さが袖口へ染み、皮膚の熱をゆっくり奪っていった。

 

 

崩れた石垣の隙間に、小さな紫花がひとつだけ残っていた。

踏まぬよう身を寄せた拍子に、薬箱の角が肋へ硬く当たった。

 

 

山寺の裏手では、乾かした薬草が縄へ幾重にも吊られていた。

葉擦れの音は浅い眠りの寝息に似て、耳の奥へ長く残った。

土壁へ寄せた背から、冷えた湿気が静かに染み込んできた。

 

 

雪解け水を飲んだあと、腹の底で小石の転がるような音がした。

空を覆う雲は低く、遠い峰だけを鈍く隠していた。

 

 

夜道では瓶の触れ合う音が妙に澄み、耳の奥を細く擦った。

闇へ目を慣らすほど、肩の重みだけが濃く浮かび上がってきた。

 

 

小さな浜へ出ると、寄せる波が砕けた硝子のように青白かった。

潮を含む風は荒く、唇へ乾いた苦味を置いていった。

 

 

囲炉裏灰へ手をかざしたが、芯まで届く熱はなかった。

煤けた梁を見上げていると、旅の間に触れた幾つもの掌の温度が静かに蘇った。

 

 

峠へ戻る朝、薬箱の紐は以前より柔らかく肩へ沿っていた。

硝子瓶の揺れる音は遠い水脈のように続き、雪雲の下へゆっくり溶けていった。

 

 

枯れ枝を踏むたび、湿った音が薄雪の下で鈍く沈んだ。

箱の底で転がる丸薬の気配が、胸骨の裏へ小さく響いていた。

 

 

海から離れた山里でも、衣へ残る潮の匂いは消えなかった。

軒端に吊られた大根が白く揺れ、その乾いた肌へ夕光が細く絡んでいた。

指先へ触れた冷気だけが、歩いてきた長い坂道を静かに思い出させた。

 

 

夜明け前の川面は鉛のように重く、浅瀬の石だけが淡く光っていた。

硝子瓶を抱え直すと、掌に伝わる冷たさが骨の深くまで澄み渡った。

 




春浅い浜辺で笠を脱ぐと、潮風が額の汗を薄く冷やした。
歩き続けた足裏には砂の粒が入り込み、波音だけが長く耳へ残っていた。


使い切った丸薬の瓶は、空のままでも淡い光を抱えていた。
掌で転がすたび、乾いた硝子の感触が古い雪の冷えを思い起こさせた。
海霧の向こうでは、崩れた雲がゆっくり群青へ沈みはじめていた。


山道へ戻る頃、背の薬箱は以前より軽く軋んでいた。
枝先に残る雫が朝明けを細く映し、その揺れだけが旅の続きを黙って照らしていた。
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