泡沫紀行   作:みどりのかけら

1526 / 1541
山裾を抜けて海へ近づく頃、風にはまだ青い草の匂いが残っていた。
旅籠を離れてから幾日も経ち、足裏の皮だけが硬く季節へ馴染んでいた。


峠を越えた先で、遠い波音が薄く耳へ届き始めた。
その響きは眠りの底に沈んでいた記憶を擦り、胸の奥へ白い影を浮かべた。
湿り気を帯びた風が袖を揺らし、見えない潮の気配だけを先に運んできた。


海沿いの村へ着く頃には、空は鈍い銀色へ曇っていた。
軒先へ吊るされた網から滴る雫が、乾いた土へ静かに染み込んでいた。
私は足を止め、その冷えた匂いを肺の深くまで吸い込んだ。



1526 白銀翼の海妖漁歌

潮の匂いを含んだ風が、浜沿いの葦をゆるく擦っていた。

裸足に近い草履の裏へ、昼の熱を残した砂が柔らかく沈んだ。

 

 

白く乾いた網が杭に掛けられ、海から戻った水気をまだ抱いていた。

指で触れると塩の粒が砕け、薄い痛みだけが爪先へ残った。

雲の切れ間では、鈍い銀色の光が波へ細く落ちていた。

 

 

岬の陰に寄せられた小舟は、骨のように痩せた舳先を空へ向けていた。

 

 

浜へ近づくにつれ、白エビを煮る匂いが潮気と混ざり始めた。

鍋の湯気は低く流れ、湿った首筋へまとわりつくように沈んだ。

 

 

漁師の残した足跡に雨水が溜まり、その浅い影へ夕空が揺れていた。

私はそこへ片足を置き、ぬるい泥の重さを踵で静かに受けた。

 

 

沖には薄青い霧が残り、白い羽虫の群れが波際を漂っていた。

歩くたび袖口へ湿気が入り、肌の熱だけが布の内側へ籠もった。

遠い磯では海鳥が低く鳴き、砕けた貝殻の音がその間を埋めていた。

 

 

干された白エビは夕映えを吸い、硝子片のような光を細く返していた。

 

 

石垣へ腰を下ろすと、長く歩いた脛がようやく鈍く脈を打ち始めた。

掌で撫でた石は海水を含み、冷えたまま骨へ染み込むようだった。

 

 

小さな社の裏には黒松が傾き、その根元へ白砂が吹き寄せられていた。

枝葉の擦れる音は浅い眠りに似て、耳の奥をゆっくり曇らせた。

 

 

漁火の消えた浜は暗く、それでも波だけが絶えず白くほどけていた。

私は濡れた岩を避けながら歩き、潮で重くなった裾を片手で持ち上げた。

膝裏へまとわる夜気には、井戸水のような冷たさが潜んでいた。

 

 

海辺の納屋には細い縄が積まれ、乾いた魚鱗が月明かりを散らしていた。

 

 

朝になる前の空は青灰色で、水平線だけが刃のように明るかった。

浜へ集まる者たちの背には眠気より深い疲れが滲み、肩の骨が衣の下で静かに動いていた。

 

 

私は防砂の松林を抜け、波音の近い細道へ足を向けた。

湿った土は夜露を吸って柔らかく、踏むたび冷えが足裏へ滲んだ。

 

 

浜の桶には獲れたばかりの白エビが積まれ、透けた身が朝光を淡く弾いていた。

その匂いは甘さと生臭さを同時に含み、喉の奥へ薄い膜のように残った。

指先へ触れた殻は驚くほど軽く、砕けた雪の感触に似ていた。

 

 

昼近くの海は強い白を帯び、目を細めても波の境が掴めなかった。

 

 

浜風に晒された板塀には、古い潮染みが幾重にも浮いていた。

そこへ背を預けると、乾いた木肌が肩甲骨へざらついて触れた。

 

 

雲が西へ流れるたび、海面の色は青から鉛色へ静かに沈んだ。

私は小舟の影へ腰を寄せ、掌に残る塩気を舌先で確かめた。

遠くの沖では細い雨が落ちているらしく、空だけが薄く霞んでいた。

 

 

浜を離れる頃、砂の上には無数の白い殻が散り、夕陽を淡く抱いていた。

踏みしめるたび小さな音が足元で乾き、胸の奥にも似た響きが静かに残った。

 




浜を離れても、袖口には潮風の匂いがわずかに残っていた。
草履の裏へ入り込んだ砂は落ちきらず、歩くたび乾いた音を返した。


振り返れば、白く霞んだ海が夕靄の向こうで静かに沈んでいた。
波の光だけが細く揺れ、あの浜に散っていた白エビの殻を思わせた。
肩へ触れる風は冷え始めていたが、掌にはまだ塩気が残っていた。


山道へ入る頃、海鳥の声はもう届かなくなっていた。
それでも耳の奥には、夜明けの波が寄せる音だけが薄く続いていた。
暮れかけた空の下で、私は湿った土を踏みながら静かに歩き続けた。
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