旅籠を離れてから幾日も経ち、足裏の皮だけが硬く季節へ馴染んでいた。
峠を越えた先で、遠い波音が薄く耳へ届き始めた。
その響きは眠りの底に沈んでいた記憶を擦り、胸の奥へ白い影を浮かべた。
湿り気を帯びた風が袖を揺らし、見えない潮の気配だけを先に運んできた。
海沿いの村へ着く頃には、空は鈍い銀色へ曇っていた。
軒先へ吊るされた網から滴る雫が、乾いた土へ静かに染み込んでいた。
私は足を止め、その冷えた匂いを肺の深くまで吸い込んだ。
潮の匂いを含んだ風が、浜沿いの葦をゆるく擦っていた。
裸足に近い草履の裏へ、昼の熱を残した砂が柔らかく沈んだ。
白く乾いた網が杭に掛けられ、海から戻った水気をまだ抱いていた。
指で触れると塩の粒が砕け、薄い痛みだけが爪先へ残った。
雲の切れ間では、鈍い銀色の光が波へ細く落ちていた。
岬の陰に寄せられた小舟は、骨のように痩せた舳先を空へ向けていた。
浜へ近づくにつれ、白エビを煮る匂いが潮気と混ざり始めた。
鍋の湯気は低く流れ、湿った首筋へまとわりつくように沈んだ。
漁師の残した足跡に雨水が溜まり、その浅い影へ夕空が揺れていた。
私はそこへ片足を置き、ぬるい泥の重さを踵で静かに受けた。
沖には薄青い霧が残り、白い羽虫の群れが波際を漂っていた。
歩くたび袖口へ湿気が入り、肌の熱だけが布の内側へ籠もった。
遠い磯では海鳥が低く鳴き、砕けた貝殻の音がその間を埋めていた。
干された白エビは夕映えを吸い、硝子片のような光を細く返していた。
石垣へ腰を下ろすと、長く歩いた脛がようやく鈍く脈を打ち始めた。
掌で撫でた石は海水を含み、冷えたまま骨へ染み込むようだった。
小さな社の裏には黒松が傾き、その根元へ白砂が吹き寄せられていた。
枝葉の擦れる音は浅い眠りに似て、耳の奥をゆっくり曇らせた。
漁火の消えた浜は暗く、それでも波だけが絶えず白くほどけていた。
私は濡れた岩を避けながら歩き、潮で重くなった裾を片手で持ち上げた。
膝裏へまとわる夜気には、井戸水のような冷たさが潜んでいた。
海辺の納屋には細い縄が積まれ、乾いた魚鱗が月明かりを散らしていた。
朝になる前の空は青灰色で、水平線だけが刃のように明るかった。
浜へ集まる者たちの背には眠気より深い疲れが滲み、肩の骨が衣の下で静かに動いていた。
私は防砂の松林を抜け、波音の近い細道へ足を向けた。
湿った土は夜露を吸って柔らかく、踏むたび冷えが足裏へ滲んだ。
浜の桶には獲れたばかりの白エビが積まれ、透けた身が朝光を淡く弾いていた。
その匂いは甘さと生臭さを同時に含み、喉の奥へ薄い膜のように残った。
指先へ触れた殻は驚くほど軽く、砕けた雪の感触に似ていた。
昼近くの海は強い白を帯び、目を細めても波の境が掴めなかった。
浜風に晒された板塀には、古い潮染みが幾重にも浮いていた。
そこへ背を預けると、乾いた木肌が肩甲骨へざらついて触れた。
雲が西へ流れるたび、海面の色は青から鉛色へ静かに沈んだ。
私は小舟の影へ腰を寄せ、掌に残る塩気を舌先で確かめた。
遠くの沖では細い雨が落ちているらしく、空だけが薄く霞んでいた。
浜を離れる頃、砂の上には無数の白い殻が散り、夕陽を淡く抱いていた。
踏みしめるたび小さな音が足元で乾き、胸の奥にも似た響きが静かに残った。
浜を離れても、袖口には潮風の匂いがわずかに残っていた。
草履の裏へ入り込んだ砂は落ちきらず、歩くたび乾いた音を返した。
振り返れば、白く霞んだ海が夕靄の向こうで静かに沈んでいた。
波の光だけが細く揺れ、あの浜に散っていた白エビの殻を思わせた。
肩へ触れる風は冷え始めていたが、掌にはまだ塩気が残っていた。
山道へ入る頃、海鳥の声はもう届かなくなっていた。
それでも耳の奥には、夜明けの波が寄せる音だけが薄く続いていた。
暮れかけた空の下で、私は湿った土を踏みながら静かに歩き続けた。