泡沫紀行   作:みどりのかけら

1528 / 1541
湿った風が谷の底から立ちのぼり、歩みを導くように指先をかすめた。
まだ名の定まらぬ山の気配だけが、遠くで静かに揺れていた。


足を踏み入れる前から、地面はすでに呼吸していた。
柔らかな土は沈黙のまま、記憶の層を重ねていた。


空は薄く曇り、光は輪郭を持たずに広がっていた。
その曖昧な明るさの中で、時間だけがゆっくりと沈んでいった。



1528 雲頂を穿つ神薬の峰

夏の麓に立つと、湿った緑の匂いが足元から立ちのぼった。

白く霞む稜線は遠く、雲の呼吸だけが山肌を撫でていた。

山の湿度は衣の縁にまとわりついた。

 

 

足裏に湿った土が沈み、歩くたびに柔らかな抵抗が返った。

空気は冷えを残しながらも夏の厚みを含み、呼吸は重くほどけた。

足跡はすぐに湿気へと吸い込まれていった。

 

 

岩の階段は乾きと湿りが層をなし、靴底に鈍い記憶を刻んだ。

指先で触れた石は冷たく、微かな砂が剥がれ落ちた。

山肌の傾きが歩幅を微かに揺らした。

 

 

岩肌には苔が薄く広がり、指を置くと水の気配が滲んだ。

その緑は光を吸い、音のない湿度として周囲を満たした。

苔の奥からは冷たい息のような水音がした。

 

 

樹々の密度が薄れるほど、音は遠くへ沈み、時間の輪郭がほどけていく。

肌に触れる風は細く、見えない刃のように静かに通り過ぎた。

遠い鳥影が一度だけ空を横切った。

 

 

呼吸は深くなるたび胸の内側で熱を帯び、足は鉛のように重さを増した。

汗は皮膚の縁を辿り、風に触れるとすぐに冷えて消えた。

背中には岩の冷気がしみ込み続けていた。

 

 

稜線に立つと谷は深く折れ、緑の層が幾重にも重なっていた。

遠景は霞に溶け、境界という概念だけが薄く残った。

その眺めは静かな圧力のように胸へ沈んだ。

影は薄く伸びた。

 

 

雲は峰を貫くように流れ、岩の輪郭を何度も消し去った。

その中心には、空と地が重なる一瞬の静止があった。

雲の内部では光が裂け目を探して揺れていた。

 

 

夏の残雪は岩陰に潜み、指先ほどの水となって流れ出していた。

その冷たさは舌先に似た記憶を呼び起こし、喉の奥へ静かに落ちた。

水は岩を伝い、細い筋となって谷へ消えた。

 

 

岩の重みは掌に沈み、時間の層をそのまま抱えているようだった。

角の鋭さが皮膚をかすめ、存在の輪郭を静かに研いだ。

掌の奥で山の重さがゆっくり脈打っていた。

 

 

風は谷を渡り、岩壁を擦る音だけを残して過ぎた。

その音は見えない波のように、胸の内へ長く残響した。

岩壁はその響きを抱き込みながら沈黙した。

 

 

岩間に生える草は淡く香り、指先を通して微かな熱を残した。

それは山の深部で熟した気配のように、静かに薬の名残を思わせた。

香りは薄く漂い、呼吸の間に溶けて消えた。

 

 

細い流れを掌に受けると、石の冷たさと共に山の記憶が口に広がった。

その味は言葉に変わらず、ただ透明な重さとして喉を抜けた。

舌の奥に残る余韻だけが山を語っていた。

 

 

光は雲の裂け目から落ち、岩肌に薄い金を塗り重ねた。

その明暗の移ろいは、歩みの内側で静かに形を変え続けた。

光の角度が変わるたび、岩は別の表情を見せた。

 

 

自らの影は薄く伸び、山の輪郭に溶けて判別を失った。

ただ歩くことだけが、確かな刻印として残っていった。

 

 

空気はさらに薄く澄み、呼吸の輪郭が鋭くなっていった。

岩の間から吹き上がる風が、歩みを静かに押し上げた。

呼吸の音が岩に吸われるように消えた。

 

 

峰の上には雲海が広がり、地の記憶をすべて白く覆っていた。

そこでは境界が消え、存在だけが静かに浮かんでいた。

 

 

下りの道では光が柔らかく戻り、岩の冷たさが再び肌に寄り添った。

山は遠ざかるほどに静まり、記憶だけがゆっくりと沈んでいった。

背後にはまだ高みの気配が残っていた。

 




稜線を離れた後も、指先には岩の冷たさが残り続けていた。
それは触れたものではなく、内側に宿った重さのようだった。


谷へ戻る道は静かで、風だけが過ぎ去った時間を撫でていた。
足音は薄くなり、やがて山の呼吸に吸い込まれていった。


背後にそびえる峰は、すでに形ではなく気配として在った。
振り返るたびに、その輪郭は雲へと溶けていった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。