泡沫紀行   作:みどりのかけら

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夏の空は、昼よりも夜にこそ、その深さを明かしてくれることがある。
耳を澄ませば、草の声が、風のささやきが、静かに広がってくる。

ある場所では、夜が夜であることをまっすぐに教えてくれる光景がある。
ただ歩き、ただ見上げることで、ひとは何も持たなくても満たされるということを思い出す。

あの場所で出会った星々の声が、今も胸の奥でやわらかく響いている。


0153 星々と語らう夜の神殿

草の香りが濃くなりはじめた。

陽の気配が西の向こうに褪せてゆき、空の蒼が薄く、淡く、透明な闇に溶けていく。

小高い丘を越えた先、木々の合間にひらけた道は、風の通り道でもあった。

足もとはまだぬるく、昼の熱が土に沈んでいる。

 

音のない風が、葉の群れをかすかに揺らし、耳の奥に遠い鈴の音を残した。

歩みを止めると、胸の奥まで満たされるような静寂が広がる。

 

土は乾ききっていない。

だが、砂の粒はやわらかく、靴の底にほどよく馴染む。

かすかに湿った苔のにおい。

枝葉の陰に、羽を休めた虫の気配。

そのすべてが、何かの予兆のように身のまわりを満たしていた。

 

やがて、木立の切れ間から、石を敷き詰めたゆるやかな坂が現れる。

それはかつて何かを導いた道のようにも見えたし、誰かが忘れ去った祈りの痕跡のようにも見えた。

苔むした石には、幾度も踏みしめられた気配があり、そこに在るべき重みと、遠い時の重なりが染みついていた。

 

空の色が濃くなってゆく。

あたりの輪郭が、だんだんと溶けはじめる。

何かをはっきりと見つめることはもうできず、ただ気配と影と、匂いと音とを頼りに進む。

すこしだけ肌寒くなった風が、襟元を撫でた。

 

やがて、視界がひらける。

 

それはまるで、ひとの手が一切触れていない、空と大地の対話の場所だった。

草原のようでもあり、浅くくぼんだ広間のようでもある。

そこにはなにもない。

けれど、なにもないことが、なにより豊かだった。

 

草は低く、風にたなびき、ざわざわと低く唄っている。

空を仰げば、深く、深く、吸い込まれるような藍。

その中に、ひとつ、またひとつと、光が滲みはじめる。

 

星。

 

そのことばを思い浮かべたとき、舌の奥に古い記憶が蘇る。

かつて名づけられる前の、名のない光のこと。

指さす必要のなかった、ただ見上げるだけで心が満たされた、あのころの。

 

その夜空は、まるで、世界の秘密がすべて書き記された書物のようだった。

だれもその文字を読むことはできないが、読む必要もなかった。

光の並びに、滲む気配に、まぶたの裏に残る残像に、確かに何かが息づいている。

 

風が止み、草の音が静まる。

そのとき、空はさらに深く沈み込み、星々がまばたくたびに、遠い祈りが耳の奥に響く。

ひとつ、またひとつ。

点のような光が、やがて面を成し、空のなかで織りあげられていく。

 

声なき声がある。

その響きは、耳ではなく、骨に伝わってくる。

ひざの下から立ち上がるその振動に、地と空とが、今も言葉を交わしていることを知る。

 

星々は語っていた。

かつてここに眠っていたものたちのこと。

誰にも知られることのなかった想いのこと。

誰にも名づけられなかった沈黙のこと。

 

胸の奥がひとつ、やわらかく脈打つ。

 

衣の袖に、ひとひらの冷たさが触れた。

それは星明かりではなかった。空から落ちたものでもなかった。

風のかけらが、夜の深みにまぎれて、ほんのわずかに触れただけ。

 

にもかかわらず、そのひとしずくのような感触が、身体の奥に静かに沁み込んでいく。

まるで、心の中に閉じ込めていた忘れものが、そっと開かれてゆくように。

 

指先をひらけば、夜の冷気がしずかに流れ込む。

掌のなかには何もない。

だが、無であることが、すでに満ちていることと同じ意味を持っていた。

 

遠くで、羽ばたく音がする。

どこかで草を蹴るような小さな音がしたあと、再び静寂が戻る。

それは音というよりも、沈黙の重なりのなかで、偶然こぼれ落ちた感覚だった。

 

空を見上げたまま、立ちつくす。

 

星々は、もう完全に夜を掌握していた。

それぞれの灯りが、それぞれの思惑を持って、夜空のなかで身じろぎしている。

あるものは寄り添い、あるものは孤独に、あるものは軌を描きながら。

 

その姿を見ていると、不意に、名前のないものに対して敬意を抱きたくなる。

言葉で囲ってしまえば、失われてしまうような、うつくしさ。

そのままにしておくことだけが、唯一の応答となるもの。

 

しばらくのあいだ、ひとつの星を見つめていた。

淡く震えるように、そこに在り続けているだけの光。

それがなぜ、こんなにも心を打つのか、わからない。

 

ただ、ここに居るということ。

ただ、見上げるということ。

それだけの行為が、あらゆる問いの応えになっているようだった。

 

足元の草が、ゆっくりと風になびく。

その揺れ方ひとつひとつに、見えない時間の流れが宿っている。

 

小石を踏む感触があった。

かすかに丸みを帯びた輪郭が、足裏に語りかけてくる。

それは何百年も風に磨かれ、雨に洗われ、今ようやく、ここにある。

 

星々と語る、というのは、問いかけることではなく、沈黙のなかに耳を澄ますことなのだと、知る。

 

遠くの空に、尾を引くような光が流れる。

一瞬。

そして、それはもう過去になる。

誰も気づかず、誰も見届けることのなかった煌めき。

 

それでも、その光は確かにあった。

今この瞬間も、どこかの闇のなかで、誰かの記憶のなかで、燃え尽きている。

 

歩き出す。

 

音もなく、静かに。

踏みしめる土の感触、草の冷たさ、風の湿り。

星々の気配を背に受けて、言葉を持たないまま、ひとつの祈りが胸の奥に灯る。

 

夜の神殿は、まだ息づいている。

目に見えない礼拝のなかで、名もなきものたちが、名もなき光の下に、そっと集まっている。

 

そして、またひとつ星が瞬く。

 

それは、誰にも見えないはずの微かな光。

けれど、その存在だけが、夜の奥底を、ゆっくりと、確かに、癒していた。




静けさの中に身を置いていると、不思議と呼吸が深くなる。

名づけることも、語ることもできない光や気配が、そっと寄り添ってくる。
目に見えないものに満たされる夜が、たしかにそこにはあった。

すべてが遠く、すべてが近く、何も始まらず、何も終わらないまま、ただその場所に「在る」ことの確かさだけが、心に残っている。
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