泡沫紀行   作:みどりのかけら

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歩くたび、足の裏に記憶が触れた。

土は言葉を持たないが、ときおり風を借りて何かを囁いてくる。
それは声ではなく、音でもない。

木々の影の奥で、名もなく積もってきた時間の匂いが、ふと立ち上る。
目に見えぬものほど確かに、肌にふれてくる季節がある。

夏のある日、ひとつの静けさに出会った。
その静けさに耳を澄ましたとき、土の奥に伏せられたひとつの詩が、胸の内でほどけはじめた。


0154 星を見上げし土の詠み手たち

陽に焼けた大地の上を、裸足のような感覚で歩いていた。

土はぬるく、かすかにしめり、草の根の下で眠る時間の粒が、指先にわずかに触れる。

風は砂を撫でるように横たわり、木々はどこまでも低く、身を伏せるようにして、夏の空に祈っていた。

 

ひとつ、ふたつと、赤い実が地に転がる。

声もなく潰れて、指先に色が染まる。

甘い香りがひとときの幻のように鼻をかすめる。

しゃがみこみ、指に残る赤を見つめる。

皮膚の下に沈んでいくような感触。土の記憶が、皮膚にしみ込んでくる。

 

空はどこまでも高く、青く、まるで深い水のようだった。

雲は切り紙のように淡く、裂けては流れ、流れては戻る。

空の気配が、肌の裏から震えるように伝ってくる。

草の間を抜けていく風に、夏の気配が染みている。

 

足元に転がる石片を拾い上げる。

掌の中に納まるそれは、どこか懐かしい形をしていた。

微かに丸みを帯び、刃のような端を持ち、光にかざすと、内に秘めた赤みが透けて浮かぶ。

かつて誰かの手がそれを削り、磨き、使っていたのだろうか。

そう想うだけで、胸の内に静かな波紋がひろがった。

 

陽はまだ高く、だが、影は確かに長くなりはじめている。

小さな丘を越えると、黒く焼けたような岩がいくつも転がっていた。

そこだけ、時間がよじれているような気配。

苔むした石の間から、朽ちかけた骨のようなものが覗いていた。

あれは、祈りの形か、それとも眠りの名残か。指を伸ばしかけて、そっと引っ込めた。

 

地の下には、数千の眠りがある。

言葉を持たぬ命たちの、名もなき歌が眠っている。

夜を知らぬ昼の中で、彼らは星を仰ぎ、土と語らい、生を紡いできた。

風の流れを読むように、空のきらめきに耳を澄まし、口には出さぬ詩を、骨に刻んできた。

 

ひとすじの煙が、地の端から立ちのぼっていた。

風に揺れながら消え入り、またふくらむ。

近づくにつれ、焦げた草のにおいが鼻をついた。

けれど、不快ではなかった。

むしろ、懐かしい。

何度も夢に見たような、あたたかさの底にある、原初の記憶のような。

 

そこには、焼けた土の上にいくつかの穴が掘られており、灰色の器のかけらが、まるで眠るように並んでいた。

指先でなぞると、粗い線刻があった。

螺旋、波、歪んだ太陽。

意味を問うには無粋すぎる。

けれど、その指の感触が、確かに心を揺らした。

 

掌に器を抱えると、重みがあった。

中は空だが、重さがあった。

風も、音も、まるでその中に潜んでいるような気がした。

器は器ではなく、風のかたち、祈りの記憶、星の寝床だったのかもしれない。

 

背中に陽を浴びながら、そこに腰を下ろす。

草がこすれる音が耳に入り、遠くで鳥が一声鳴いた。

空を仰ぐと、雲はもう東へ流れ、夕暮れの色を滲ませていた。

沈黙が、音よりも濃密に、世界を包みはじめていた。

 

指先に土がついていた。器の欠片にも、石の縁にも、同じ土の粒がこびりついていた。

何千の年月を越えて、土は、ただそこにあった。

誰かの手のひらに、いま、再び触れられることを待っていたように。

 

草むらの奥、傾きかけた陽が葉を透かして、金の粉のような光が舞っていた。

手の甲にひとすじ落ちてきた光が、まるで星のように熱を持ち、胸の奥を焼いた。

時間が遠のき、音の輪郭がぼやけ、ただ光と匂いと土の感触だけが、そこに残った。

 

立ち上がると、体の奥にかすかなきしみを感じた。

骨がきしむのではなく、もっと深い、沈黙に包まれた部分。

それは土に触れすぎたせいか、それとも、あの器の奥に眠る言葉なきものに、どこか触れてしまったからかもしれなかった。

 

足をすすめると、なだらかな窪地に出た。

そこはひっそりと、風の音さえ遮るような静けさに満ちていた。

中心には、地面がわずかに盛り上がり、まるで眠るものの背のように見えた。

草が斜めに揺れて、その動きが、見えない呼吸のように感じられた。

 

そこにひざをつき、手のひらをそっと土に伏せた。

温もりがあった。

ただの陽のぬくもりではない、深く、内側からじんわりと伝わるような熱。

目を閉じると、かすかに囁くような音が、耳の奥に届いた。

風ではない。

木の葉でもない。

もっと、内なるところから滲み出るような、かすかな振動だった。

 

星がまだ見えない空に、薄明かりが差し始めていた。

光は西へ、影は東へ伸びる。

そこに影があるのなら、光もまたあったということ。

ただ、それがどこにあるのか、何に宿るのかは、簡単には見つからない。

けれど、こうして歩くことで、何かが少しずつ輪郭を取り戻していくように感じた。

 

斜面を登ると、いくつかの石が環のように並んでいた。

苔がふちを覆い、小さな虫がその上を這っていた。

石の間に立ち、空を仰いだ。

ようやく、ひとつの星が滲んでいた。

まだ空は明るいのに、そこだけが夜の入口のように輝いていた。

あの星もまた、誰かの視線を受けとめてきたのだろう。

言葉を持たぬまま、ただ夜ごとに、空の歌を響かせて。

 

そのまま座り込み、ふたたび手のひらで土をすくう。乾いた土の粒が、音もなく指の間をすり抜ける。

その粒ひとつひとつに、幾千の命が染みていたのだろう。

指先に、かすかに何かが触れた。

小さな破片。

指でそっとつまみ上げると、それは細工の施された小さな玉だった。

赤茶けた色、柔らかな光沢。

掌にのせ、頬に近づけると、微かに焦げたような香りがした。

 

思わず目を閉じる。

音もなく、何かが胸にしみ込んでくる。

それは涙に似ていたが、熱くも冷たくもなかった。

ただ、懐かしいとしか言いようのない、時のしずくのような感触だった。

 

地を歩くことは、眠りの中を歩くことに似ている。

言葉もなく、ただ肌で、足裏で、目に映るものの奥にある気配を感じとっていく。

どこかで誰かが見上げた星を、いま、こちらもまた見上げている。

その偶然が、なぜかやけに重たく、そしてやさしく思えた。

 

風が、髪をなぶった。

星が、ひとつ、またひとつと増えていく。

草の上に身を横たえると、背中に地の呼吸が伝わってきた。

大地が眠っているのではなく、こちらの鼓動に耳を澄ませているのかもしれない。

そう思った瞬間、胸の奥にあたたかなひかりが灯った。

 

音もなく、夜が降りてきた。

すべてを包み込み、すべてを眠らせ、ただ星だけが瞬いていた。

土の詠み手たちは、きっとこの夜のなかで、言葉なき詩を空にうたい続けていたのだろう。

土に刻まれた螺旋も、波も、太陽も、すべては星に向けて紡がれた、沈黙のうた。

 

目を閉じると、そのうたが胸の内で微かに響いた。

遠く、深く、けれど確かにそこにある音だった。

やがて、その響きに包まれながら、静かにまぶたをひらく。

夜はもう深く、風は止み、ただ星だけが、すべてを見下ろしていた。




言葉は終わったが、沈黙は続いていた。
ふりかえれば、踏みしめた土には何の跡も残っていない。
ただ、指の先にこびりついた赤土の気配が、まだ熱を失わずにいる。

あの夜、星の下で聞いたものが夢だったのか、風だったのか、それとも記憶だったのかはわからない。
けれど、心のどこかに小さな螺旋が刻まれ、そこに風が流れこんでくるのを感じる。

星は変わらずそこにあり、土もまた何ひとつ語らずそこにある。
だからこそ、また歩いてみたくなる。
何も見えぬままに、確かなものを確かめるように。
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