泡沫紀行   作:みどりのかけら

1543 / 1544
冬の峠道では、雪が音を吸い尽くし、靴裏の軋みだけが白い闇へ沈んでいた。
私は凍った枯草を踏み分けながら、山肌に浮かぶ淡い青光を追っていた。
その光は遠ざかるたび濃くなり、胸の奥へ湿った重みを落としてきた。


谷間へ降りる風には古い香木の匂いが混じり、外套の隙間から皮膚を静かに削いだ。
指先は感覚を失いかけていたが、掌だけが見えない熱源を探るように疼いていた。
雪原の彼方には、龍の背骨に似た黒い稜線が沈黙したまま横たわっていた。


石段の入口へ辿り着くころ、辺りの気配は異様な静けさへ変わっていた。
誰かの祈りが朽ちたあとの余韻だけが、凍気に混じって漂っていた。
私は白く曇る呼気を抱えたまま、その深部へ足を踏み入れた。



1543 眠れる龍の霊域

峠を越えるころ、雪は乾いた灰のように肩へ積もり、外套の縫い目へ静かに染みこんだ。

谷底から昇る白い息が膝裏を撫で、歩幅だけが沈黙の深さを測っていた。

 

 

杉に似た黒木の列は、凍った水脈を抱えたまま空へ伸び、その枝先から硝子片のような霜を落としていた。

頬へ触れた欠片は熱を奪い、皮膚の裏側に薄い痺れを残した。

 

 

山腹には龍の骨格を思わせる石段が埋もれ、雪の下で微かな起伏だけを浮かべていた。

足裏へ返る硬さが不規則で、踏むたびに眠りの浅い獣へ触れている気配があった。

 

 

古い門に似た影を潜ると、空気の重さが変わり、肺の内側へ冷えた水が満ちる感覚に襲われた。

柱の裂け目には藍色の氷が張りつき、曇った光を静かに呑みこんでいた。

 

 

境内らしき広がりには雪が均され、誰かの歩行を消したあとだけが淡く残っていた。

その消え際の輪郭へ靴先を寄せるたび、胸骨の裏で細い振動が返ってきた。

 

 

軒から垂れる氷柱は短い刃の列となり、風の揺れに合わせて鈍く軋んだ。

耳へ届くその擦過音は声にならず、乾いた祈りだけを周囲へ滲ませていた。

 

 

石畳の裂け目には暗い水が眠り、覗きこむと深部で青白い鱗のような光が揺れた。

屈んだ膝へ冷気が絡みつき、立ち上がる頃には感覚の境目が曖昧になっていた。

 

 

堂の奥へ続く回廊は異様に長く、歩くたび床板の下で遅れた鼓動が返った。

掌を壁へ当てると、湿った木肌の内側に低い熱が封じられていた。

 

 

天井近くには煤けた龍影が残り、その眼窩だけが雪明かりを吸っていた。

視線を向けるほど肩の重みが増し、首筋へ細い圧が沈んでいった。

 

 

回廊の終端には浅い池があり、水面は凍結せず黒い鏡のまま揺れていた。

縁石へ腰を触れさせると、石の冷えが骨盤を通って背骨へ昇った。

 

 

池の中央には硝子質の花弁が散り、風もないのに微かに位置を変えていた。

その移動の軌跡だけが白く曇り、誰かの残響のように長く尾を引いた。

 

 

奥の壁面には無数の爪痕が刻まれ、古い雪の匂いがそこへ沈殿していた。

指先で溝をなぞると、乾いた痛みが爪裏へ入り込み、血の温度だけが際立った。

 

 

吹き抜ける夜気は香木に似た甘さを含み、喉へ触れたあと静かに冷えていった。

その匂いの底には、水底で眠る巨大なものの湿った体温が潜んでいた。

 

 

私は中庭へ降り、積雪へ膝まで沈みながら崩れた石塔のそばを巡った。

雪の内部から遅れて返る冷たさが脛を締めつけ、歩行の輪郭を鈍らせた。

 

 

空には薄い月が浮かび、その輪郭だけが青く滲んでいた。

見上げるたび瞼の裏へ淡い鱗模様が残り、視界の奥でゆっくり脈打った。

 

 

堂の背後には洞穴めいた裂け目があり、内部から温い霧が流れ出していた。

近づくほど掌の汗が冷え、指関節に細かな震えが集まってきた。

 

 

裂け目の奥では、水音とも呼吸ともつかぬ揺らぎが断続していた。

私は壁へ肩を預け、その振動が肋骨へ染み込む速度だけを黙って数えた。

 

 

やがて雪は細かな灰へ変わり、境内全体を淡く覆い始めた。

来た道を戻るころには足跡の半分が埋まり、眠れる龍の気配だけが背後で静かに目を閉じていた。

 




霊域を離れたあとも、肩には冷えた圧だけが薄く残っていた。
山道へ戻ったはずなのに、足裏にはなお石畳の硬質な感触が貼りついていた。
雪は静かに降り続き、来た道の輪郭を淡く埋めていった。


夜明け前の空は硝子を削ったような青灰色に沈み、遠い峰々を曖昧に霞ませていた。
耳を澄ませるたび、水底で身じろぐ巨大なものの残響だけが胸骨へ触れてきた。
私は外套を掴む指へ微かな震えを感じながら、歩行の速度を変えずに進んだ。


やがて山裾の霧が濃くなり、背後の霊域は完全に白へ呑まれて消えた。
それでも瞼の裏には、あの黒い池と龍影の青白い輪郭が沈み続けていた。
凍えた呼気を吐くたび、硝子の魂に似た静かな冷たさだけが肺の奥で揺れていた。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。