私は濡れた石畳を踏み、冷えた靴底へ静かな水気を感じていた。
遠い湾の方角から、硝子を擦るような潮鳴りだけが届いていた。
崖下へ続く斜面には、白く乾いた草が群れ、風のたび互いを削り合っていた。
その擦過音の奥に、誰かが通り過ぎたあとの温度差だけが薄く残っていた。
私は指先を袖へ沈め、冷え始めた関節をゆっくり包み込んだ。
湾を覆う光はまだ定まらず、空と海の境目は柔らかく滲んでいた。
その曖昧な水平線の上で、かすかな街影のような揺らぎが瞬いていた。
歩みを進めるたび、胸の奥へ淡い圧だけが静かに積もっていった。
潮の匂いを含んだ白い風が、硝子質の浜を薄く擦っていた。
私は濡れた砂に足裏を沈め、砕けた貝殻の冷えを踵で受け止めた。
湾の向こうには、輪郭だけが揺れる街影のようなものが浮かんでいた。
空と海の境がほどけ、蜃気の膜がゆっくりと脈打っていた。
歩くたび、脛にまとわる湿気が重さを変えた。
水面から返る淡い光が、衣の裏側へ冷たく染み込んでくる。
古い展望棚の残骸が崖際に傾き、塩を吸った木肌を白く裂いていた。
そこには誰かの滞在した温度だけが、まだ抜けきらず残っていた。
私は指先で硝子片を拾い上げた。
透けた欠片の内部には、夕暮れに似た赤い影が沈んでいた。
海鳴りは遠く、かわりに耳の奥で乾いた砂の擦過音が続いていた。
呼吸の深さに合わせ、胸骨の裏側へ薄い震えが満ちていく。
湾へ降りる石段は、途中から空へ溶けるように霞んでいた。
足を置くたび、硬い石の感触が曖昧になり、身体の輪郭まで淡くほどけた。
沖に浮かぶ鏡界は、実像よりも静かだった。
揺らぐ塔影のようなものが海上で逆さに伸び、空の底へ沈んでいた。
私は岸辺の黒砂へ膝をつき、掌を伏せた。
冷えた粒子が皮膚へ吸いつき、脈拍だけをゆっくり拾い上げていく。
潮霧のなかには微かな気配が混じっていた。
それは声ではなく、長く閉じられていた扉の隙間から漏れる空気に近かった。
蜃気の街影が揺れるたび、海面の色が薄く裏返った。
青とも灰ともつかぬ膜が視界へ垂れ、瞼の裏側まで湿らせる。
崖沿いの細道には、擦れた足跡だけが残っていた。
乾いた窪みに雨水が溜まり、空の歪んだ光を静かに抱えていた。
歩みを進めるうち、肩へ積もる風圧がわずかに増した。
背骨の節目へ冷気が差し込み、身体の内側で薄い軋みを立てた。
海は鏡というより、記憶を磨き続ける鉱石のようだった。
近づくほど深さを失い、かわりに透明な距離だけを広げていく。
私は波打ち際で立ち止まり、濡れた衣を握った。
布の奥へ染み込んだ塩気が、指関節を鈍く冷やしていた。
空には細長い雲が裂け、その隙間へ蒼白い光が滲んでいた。
鏡界の輪郭もまた裂け目に沿って崩れ、海中へ細く沈み込んでいく。
足元の砂はぬるく、深部だけが異様に冷えていた。
踏み込むたび、異なる季節の水脈へ触れている感触があった。
やがて蜃気の街影は薄れ、湾には平坦な光だけが残った。
それでも硝子片の赤い影だけは掌に留まり、小さな熱として脈打っていた。
私は薄暮の浜を離れ、崖上へ続く白い道を踏み直した。
背後の海からは、閉じかけた鏡が軋むような湿った余韻だけが漂っていた。
崖上の白道へ戻ったころには、海の輪郭はほとんど夜へ溶けていた。
湿った風だけが背後から流れ、衣の裾を重たく揺らしていた。
掌には、あの硝子片の冷えがまだ微かに残っていた。
道端の浅い水溜まりには、裂けた雲が鈍く映っていた。
私はそこへ映る自分の影を踏み越え、軋む土の感触を足裏で確かめた。
遠ざかる湾からは、閉じ忘れられた鏡の余韻だけが漂っていた。
やがて霧は再び低く降り、白い景色の底へ道を隠していった。
それでも身体の内側には、蜃気の海で触れた冷たい光が沈み続けていた。
私は薄明の気配を胸に抱えたまま、静かな斜面をさらに歩き続けた。