泡沫紀行   作:みどりのかけら

1544 / 1545
春浅い海沿いの道では、朝霧が地面より低く漂っていた。
私は濡れた石畳を踏み、冷えた靴底へ静かな水気を感じていた。
遠い湾の方角から、硝子を擦るような潮鳴りだけが届いていた。


崖下へ続く斜面には、白く乾いた草が群れ、風のたび互いを削り合っていた。
その擦過音の奥に、誰かが通り過ぎたあとの温度差だけが薄く残っていた。
私は指先を袖へ沈め、冷え始めた関節をゆっくり包み込んだ。


湾を覆う光はまだ定まらず、空と海の境目は柔らかく滲んでいた。
その曖昧な水平線の上で、かすかな街影のような揺らぎが瞬いていた。
歩みを進めるたび、胸の奥へ淡い圧だけが静かに積もっていった。



1544 蜃気の海が見せる鏡界

潮の匂いを含んだ白い風が、硝子質の浜を薄く擦っていた。

私は濡れた砂に足裏を沈め、砕けた貝殻の冷えを踵で受け止めた。

 

 

湾の向こうには、輪郭だけが揺れる街影のようなものが浮かんでいた。

空と海の境がほどけ、蜃気の膜がゆっくりと脈打っていた。

 

 

歩くたび、脛にまとわる湿気が重さを変えた。

水面から返る淡い光が、衣の裏側へ冷たく染み込んでくる。

 

 

古い展望棚の残骸が崖際に傾き、塩を吸った木肌を白く裂いていた。

そこには誰かの滞在した温度だけが、まだ抜けきらず残っていた。

 

 

私は指先で硝子片を拾い上げた。

透けた欠片の内部には、夕暮れに似た赤い影が沈んでいた。

 

 

海鳴りは遠く、かわりに耳の奥で乾いた砂の擦過音が続いていた。

呼吸の深さに合わせ、胸骨の裏側へ薄い震えが満ちていく。

 

 

湾へ降りる石段は、途中から空へ溶けるように霞んでいた。

足を置くたび、硬い石の感触が曖昧になり、身体の輪郭まで淡くほどけた。

 

 

沖に浮かぶ鏡界は、実像よりも静かだった。

揺らぐ塔影のようなものが海上で逆さに伸び、空の底へ沈んでいた。

 

 

私は岸辺の黒砂へ膝をつき、掌を伏せた。

冷えた粒子が皮膚へ吸いつき、脈拍だけをゆっくり拾い上げていく。

 

 

潮霧のなかには微かな気配が混じっていた。

それは声ではなく、長く閉じられていた扉の隙間から漏れる空気に近かった。

 

 

蜃気の街影が揺れるたび、海面の色が薄く裏返った。

青とも灰ともつかぬ膜が視界へ垂れ、瞼の裏側まで湿らせる。

 

 

崖沿いの細道には、擦れた足跡だけが残っていた。

乾いた窪みに雨水が溜まり、空の歪んだ光を静かに抱えていた。

 

 

歩みを進めるうち、肩へ積もる風圧がわずかに増した。

背骨の節目へ冷気が差し込み、身体の内側で薄い軋みを立てた。

 

 

海は鏡というより、記憶を磨き続ける鉱石のようだった。

近づくほど深さを失い、かわりに透明な距離だけを広げていく。

 

 

私は波打ち際で立ち止まり、濡れた衣を握った。

布の奥へ染み込んだ塩気が、指関節を鈍く冷やしていた。

 

 

空には細長い雲が裂け、その隙間へ蒼白い光が滲んでいた。

鏡界の輪郭もまた裂け目に沿って崩れ、海中へ細く沈み込んでいく。

 

 

足元の砂はぬるく、深部だけが異様に冷えていた。

踏み込むたび、異なる季節の水脈へ触れている感触があった。

 

 

やがて蜃気の街影は薄れ、湾には平坦な光だけが残った。

それでも硝子片の赤い影だけは掌に留まり、小さな熱として脈打っていた。

 

 

私は薄暮の浜を離れ、崖上へ続く白い道を踏み直した。

背後の海からは、閉じかけた鏡が軋むような湿った余韻だけが漂っていた。

 




崖上の白道へ戻ったころには、海の輪郭はほとんど夜へ溶けていた。
湿った風だけが背後から流れ、衣の裾を重たく揺らしていた。
掌には、あの硝子片の冷えがまだ微かに残っていた。


道端の浅い水溜まりには、裂けた雲が鈍く映っていた。
私はそこへ映る自分の影を踏み越え、軋む土の感触を足裏で確かめた。
遠ざかる湾からは、閉じ忘れられた鏡の余韻だけが漂っていた。


やがて霧は再び低く降り、白い景色の底へ道を隠していった。
それでも身体の内側には、蜃気の海で触れた冷たい光が沈み続けていた。
私は薄明の気配を胸に抱えたまま、静かな斜面をさらに歩き続けた。
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